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試合を終えてから、俺は気分が悪くなった、という理由で保健室に行くことにした。気分が悪い、というのは勿論嘘なのだが、視界のおかげで常に吐き気と戦っているので、あながち嘘というわけでもない。真崎宛の言伝を先生に頼んでから、体育館を出て、静まりきった廊下を歩いた。
保健室の扉を開けて、中に入る。養護教諭はいない。最奥のベッドのカーテンが閉じられていた。
少し速くなった鼓動を自覚しながら、恐る恐る、声をかける。
「近衛」
すぐに、布の擦れる幽かな音が聞こえた。僅かに軋むスプリング。カーテンが開いた。
「どうしたの?」
近衛が顔を覗かせる。
俺は傍にあった簡易な丸椅子を持って、そちらのほうに近づいた。
「気分が悪い」
「嘘ではないものね」此方の考えを見透かしたような物言いで、近衛は首を傾けて微笑んだ。
ベッドサイドに椅子を置いて座る。
彼女はベッドから足を下ろすと、俺と向き合った。
「私、そのまま、体育館に残っていたほうが良かったのかしら?」
「いや、此処のほうがいい」
「お話したいのは、名護くんのこと?」
「そう」膝の上で軽く指を組んだ。「話すかどうか、悩んだけど⋯⋯、相談するにも、嬢さんしかおらんから」
「スパイかもしれないわ」
「いくらでも利用せえって、お前が言うたんやん」
「そうね」
「なあ、さっきの、どういう意味なん? 俺とお前が男と女で、みたいな話⋯⋯」
「そのままの意味よ」
そう言って、此方の顔から視線を外すと、近衛は窓のほうを見た。釣られて横を向く。窓の外には快晴の空が広がっていて、雲はない。とても明るい。深緑の葉を生い茂らせた木の枝も、見事に静止している。保健室の快適な空気とは対照的な、躰にじとりと纏わりつく湿度の高さを連想させた。今にも蝉の声が聞こえてきそうだった。
顔を戻す。近衛は依然として、外を眺めたまま。
「それ、真崎の話と関係ある?」
「名護くんとなにがあったのか、私は詳しく知らないわ。でも、推測はできます」近衛は横を向いたまま、目を閉じた。「たとえば、原因は、私と会うためにたびたび彼の傍を離れたことや、彼に事情を話さなかったこと。話すことができなかったのは、貴方の特異な視界のことを彼に伝えていないから。そうでなくて?」
「そうやけど⋯⋯」見透かされてばかりだ。思わず口が歪んでしまう。「言えるわけないやん。しゃあないやろ」
「それって、『普通』じゃないから?」
「そう」
「たしかに、貴方が『普通』から逸脱していることは事実だわ。けれど、その『普通』と呼ばれる範囲は、明確に定められた定義ではなく、個々人によって簡単に変わる、とても曖昧な概念に過ぎない。いわば、各人の価値観が形成する領域同士が重なる中心、その僅かな範囲。それはお判り?」
「うん、まあ、なんとなく⋯⋯」必死に彼女の言葉を追いながら頷いた。「公倍数ってこと?」
「或いは、素因数のベン図として捉えれば、公約数とも言えます」近衛はようやく此方を向くと、足を組み、膝を抱えるようにして手を添えた。「そして、全ての数に共通する数など存在しないわ。あるのは、ただひとつ」
「公約数⋯⋯、あ、もしかして、1?」
「そう。いわば最小の公約数ね。そして、それは私たちも同じ。私たちに共通する事項など、ただひとつしかないの。それがなにか、貴方はわかる?」彼女は一度、軽く目を閉じたが、すぐに目を開いた。「今、この瞬間に生きている、ということよ」
「生きる?」
「意地悪な言い方をすれば、全てはいずれ終わる、とも言えるけれど、結局のところ、それも、始まっているもの、つまり⋯⋯、此処に存在する、という前提に基づく当然の帰結。そうでしょう?」
「生きとることだけが、共通?」
「他は全て異なる、ということね。つまり、普通、という意味のない概念に囚われる必要はどこにもない、ということ」
彼女は足を組み換えてから、肩にかかる髪を軽く片手で払った。その様子を眺めているうちに、ようやく、彼女がなにを言おうとしていたのか、その片鱗を掴むことができた。
「そうか。男と女で、もう違っとるっていうのは、そういう⋯⋯」
「もっとも、なにを以て『生きている』という状態を定義するのか、その議論も興味深いところだけれど⋯⋯」近衛は一度静かに息を吐くと、少しだけ笑みを深めた。「久遠くん。もう一度訊ねるわ。貴方は、なにを恐れているの?」
保健室が、静寂に包まれた。
空調の低い振動音だけが、静かに響いている。
俺の『異常』。抱えてきた悩み。それらを告白して、もしも真崎に、引かれたら。笑われたら、拒絶されてしまったら? そう考えるだけで恐ろしかった。お前の顔もわからないのだと、本人に伝えて、少なからず嫌な思いをさせてしまうことが恐ろしかった。
同じ環境で育った家族であり、最も長い付き合いの友であり、常に自分の傍で武器を手に持つ、護衛の男。
そうだ。自分は、真崎に信じてもらえないことをなによりも恐れていた。それだけは、嫌だと思った。
けれど、
真崎を差し置いて伝える相手などいないはずだ。
「嬢さん。俺⋯⋯」
「待って」突然、近衛は片手を持ち上げ、手のひらを此方に向けた。
彼女の目は、自分の背後に向けられている。その視線を追って後ろを向くと、いつの間にか保健室の扉が開いており、そこには体操服を着たままの真崎が立っていた。しかし、表情まではわからない。正しく目が見えていたところで、顔色を窺うには、遠すぎる距離だ。
俺がその場に立ち上がると、真崎はゆっくりと此方に近づいてきた。保健室の中央のあたりで、真崎は一度、歩みを止める。
「先生に伝言してまで、オレとは直接喋りたくもねえってことかよ」
唸るような低い声だった。声に合わせて、真崎の躰がぐらぐらと揺れている。聞いたことがなかった。見たことがなかった。
違う、と否定したいのに。
躰が動かない。
「なにがそんなに気に食わねえの? オレがお前に、なんかしたかよ。どっちかって言うと、なんかしてんのはお前のほうだよな。いきなりよそよそしくなって、別人みたいなツラしやがってさ。慣れてもねえ標準語まで使いやがる」
揺らめく肌色の物体。時折覗く、生々しい舌の色。変形した、虚ろな眼球。
俺がいちばんよく知っているはずの、人間。
鼓動が急激に速まる。息が苦しい。心臓が口許まで迫り上がっているのかもしれない。いや⋯⋯、今、喉許まで這い上がってくるこの感触は、吐き気だ。
押さえきれなかった空気が、口の端から漏れる。
咄嗟に口を押さえた自分の手。揺れて、渦巻く肌色。視界を埋める、真崎であるはずのなにか。
近衛の声が遠くで聞こえた気がしたが、耳鳴りと激しい鼓動の音が躰の内側から掻き消してしまう。その場で躰を折り曲げて、膝をつき、耐えきれずに嘔吐した。ほとんどが胃液だった。
真崎の歩みが止まる。
すぐ傍に、歪まない靴が現れた。彼女は隣に膝をつき、俺にハンカチを差し出す。受け取れなかった。こんなもので汚すわけにはいかなかった。
「狭霧」真崎の声は、今にも泣きそうだった。自分まで泣いてしまいそうだった。「なんで⋯⋯、どうしたんだよ、お前⋯⋯」
「名護くん。その辺りに、ビニル袋か洗面器はない?」
「え? ああ⋯⋯」真崎は入口近くの棚に駆け寄り、すぐに、数枚のビニル袋を手に戻ってきた。「雑巾と、漂白剤も捜してきます。他に必要なものは?」
「雑巾よりも、ペーパータオルのほうがいいかもしれないわ」近衛はビニル袋の口を広げて、俺に手渡しながら言った。
「わかりました」
「ごめん。ほんまに、ごめん⋯⋯」
「今は無理をしないで。喋らなくて構わないから、まずは息を整えましょう」
震える手で袋を受け取ってから、彼女の言葉になんとか頷いた。遠ざかっていた真崎の足音が再び自分の傍で止まった頃には、呼吸も落ち着き、吐き気もかなり治まっていた。
真崎はいつの間にかピンク色のゴム手袋をしており、ペーパータオルと漂白剤で手際良く床を拭き、ビニル袋に捨てていく。処理を終えた頃、彼女が音もなく立ち上がり、やがて窓が少し開けられた。
「なあ、お前⋯⋯、まさか、どっか悪いのか?」真崎はしゃがみこんだ姿勢のまま、俺を覗き込む。「このこと、家は知って⋯⋯」
「真崎」
「え?」
「約束、してほしい」
「約束?」真崎の声が一気に緊張した。
「俺の話に、引いてもいい。笑っても、いい。俺のこと、わけわからんって、思ってもいい。呆れても、怒っても、縁切ってもいいから⋯⋯、俺の、話、信じて、くれ」
「約束って、それだけか?」
「そんな簡単に、信じてもらえる話ちゃうねん」
「わかった」真崎がビニル袋を持って立ち上がる。「次の授業は保健室で休むって、先生に伝えてくるから」
真崎の言葉に頷いてから、一度、窓の傍に立っている彼女を見る。近衛は軽く微笑むだけで、チャイムが鳴っても動く素振りはない。此処にいてくれる、ということだろうか。
少し安心している自分に気づき、なんとなく居た堪れなくなった俺は、口を濯ぎにいくことで気を紛らわせた。