第一章 小暑

 
     7

「昨日、なにしてたわけ」
 真崎の問いかけに、何度か口を開いたが、結局一度も声を発することはできなかった。
 登校中のことだった。しばらくの間、二人分の足音だけが沈黙を埋める。その間も、自分の頭の中ではさまざまな言い訳じみた理由を選別していた。正直に話す、という選択肢はまだない。話したところで、信じてもらえるとも思わない。
「答えないなら、先に、ひとつ言わせてもらうけどさ」真崎は歩きながら、足許の小石を軽く蹴り飛ばした。珍しいな、と思った。「最近、ちょっと危機感足りてないんじゃねえの」
「危機感⋯⋯」
「オレはお前に命かけてんだ。こっちの身にもなりやがれ」
 つい、足が止まる。
 真崎も遅れて立ち止まり、躰を此方に向けた。
「命?」
 真崎の言葉を繰り返す。
 可笑しな言葉だ。
 けれどこれが、言葉だけの、そんな上辺だけのものではないことも知っている。この男は、本当に、命をかける気でいるのだ。それが役目だと、教え込まれている。
 馬鹿馬鹿しい。
 可笑しいではないか。
「おい、狭霧、聞いてんのか?」
「かけんでええ。そんなもん」
「は?」
「命なんか、簡単にかけんな」
 真崎は一瞬、驚いたような様子を見せたが、すぐに会話が再開される。
「仕方ねえだろ。家の命令なんだし」
「やから⋯⋯、そんな、家に押し付けられたもん、律儀に守らんでええって言うとるねん」
「なんだよ、急に、今更⋯⋯」真崎の声は、困惑しているように聞こえた。
 けれど、自分だって困惑している。
 なぜ、そんな命令を受け容れられる?
 理解できない。他人のために、自らの命を投げ出す決意も覚悟も、自分には理解できない。許容もできない。
 この日常生活の中で、一介の男子高校生でしかない自分に命をかけなければならない状況が、あるはずもない。
 意味がない。
 こんなものに、目の前の男が縛られていいはずもない。
 ずっと思っていた。ずっと、それが気がかりだった。
 生まれのせいで、進路を選べない。
 役目のせいで、俺の傍を離れられない。
 俺のせいで、この男は、何もかも制限されている。
 自分がいなければ、この男はもっと自由に生きられたはずだった。
 目眩がするほど、それが酷く、悔しかった。
「大体、俺のことなんて、どうでもええやろ」
「どうでもよくねえよ。家族だろ、オレら」
「お前やって、昔はよう言いよったやん。なんでこんなことせなあかんねん、って」
「そりゃ、昔は、思ってたけど⋯⋯」
「時代錯誤やって、意味が判らんって、言いよったやん」
「今、意味が判らねえのはお前だよ」厳しい口調で真崎は言った。「何が言いてえの」
「嘘吐いたのは、謝る」話題を挿げ替えた。埒があかないと思ったのだ。「でも、ほんまの理由は、まだちょっと言えん」
「オレにも言えないような理由か?」
「言えるとか、言えんとかじゃなくて⋯⋯」顔を合わせられなくなり、少し俯いた。「俺の気持ちの問題っていうか」
「今更、遠慮する仲でもねえだろ」
「そうなんやけど」
「判った⋯⋯、もういい」真崎は判り易く溜息を吐いた。「もう知らねえから」
 そこから、真崎とは一度も会話をしなかった。
 重い気分を引き摺ったまま、一限目の体育に出席する。体育の時間は、受験生ということもあってか、もはやレクリエーションと化している。今日はバスケットボールの試合が行われた。
 一試合目は、真崎が振り分けられたチームの出番で、体育館の舞台の上、緞帳の傍で隠れるようにしてあぐらをかき、試合が終わるのを待っていた。
 真崎の言葉を思い出す。
 危機感は、たしかに足りていなかった。それは認める。けれど、自分は誰かに狙われるような、名のある家の出でも、価値のある人間でもない。強いて言えば、一般よりも半歩ほど、社会の闇に寄っている程度の立場。それも一歩ですらないのだ。
 俺個人ではなく、あの家、或いは寺自体に価値があるのだろうか?
 とはいえそれも、ただ歴史がある、というだけ。俺を通して、家の動向を探ろうとする勢力がある、とは考えにくい。
 しかし、やはり一介の僧侶でしかないはずの兄にも、真崎の姉という護衛がおり、自分の父にも、真崎の父という護衛が常に傍についている。
 その厳重さが、気にならない、と言えば嘘になる。
 今までは、それが普通だと思っていた。これは代々伝わってきたしきたりで、それを形ばかり守っているだけの、中身のないものだと思っていた。だから気にならなかった。
 そうではない、と知ったのは、中学三年の夏。
 己の視界が歪んだ頃。
「久遠くん」
 気配がなかった。
 予想だにしていなかった声に名を呼ばれて、反射的に顔を上げて振り向いた。此方に微笑みを向ける彼女の姿を捉えて、咄嗟に足を崩し、慌ててその場に立ち上がる。
「お前、なんで、」そこまで口にして、急いで声量を落とした。「いや、その前に、今すぐ隠れろ」
「隠れる?」近衛は首を傾げた。
「俺なんかと、いるところ⋯⋯、おるとこ見られるのは、まずいから」
「どうして?」
 その問いに答えることはできなかった。
 彼女を緞帳の後ろへ押しやり、周囲に生徒がいないことを確認してから、ようやく息を吐き出す。
 彼女は制服のままだった。女生徒の幽霊だと言われても納得してしまうほど、彼女の姿は、この空間では飛び抜けて異質に映る。もしかすると本当に、自分だけに見えているのではないか、と疑いさえした。
「舞台の袖って、こんなふうなのね」
「埃、大丈夫か」
「たぶん」彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「なにしとん、こんなところで」
「体育の授業でしょう?」
「だから、なんで、こんなところにおるん」
「貴方に信用してもらおうと思ったの」
「信用?」
 試合が盛り上がっているのか、歓声が一際大きくなった。しかしそれも、俺と彼女を取り巻く静謐を引き立てるだけだ。
「そう。体育の授業を見学しているのよ。私、三年五組だから」近衛は、上品に揃えた指先を、口許に添えて微笑んだ。「いつもは保健室で自習なのだけど。これで、信じていただけた?」
「それならせめて、体操服を着ろ」
「授業の様子を眺めてレポートを書くだけだもの。それでも、わざわざ着替えなければ駄目?」
「わかった。話、変える」
「それがいいわ」
「お前さ」喉が渇き、うまく唾を飲み込めなかった。「まさか⋯⋯、俺らのスパイ、とかじゃ、ないよな」
 ホイッスルの音が鳴り響いた。
 再び、歓声。
「スパイ?」彼女は目を見開くと、一度瞬いてから、密やかに笑った。「素敵なご職業ね」
「いや、判っとるねん、こんな訊き方しとる時点で、警戒もクソもないんやけど⋯⋯」
「そうね」
「いつもは見たら判るから、歪みも揺れもせん人間のことが、未知数すぎて⋯⋯」
 体育教師の声が聞こえた。慌てて緞帳から顔を出す。真崎と一度目が合った、気がした。念のため、自分の躰だけは緞帳に隠れてしまわないよう、少しだけ足をずらしておく。
「ねえ」近衛の呼びかけに顔を戻すと、彼女は覗きこむようにして此方に近づいた。「大丈夫?」
「なにが?」
「貴方よ。元気がないわ」
「そうかな」彼女から顔を逸らして、後ろ髪を掻き毟る。
「彼となにかあったのね?」
「まあ、朝、ちょっといろいろ⋯⋯」
「そう」近衛は僅かに眉を寄せた。「ねえ、貴方⋯⋯、彼には目のことをお話していないの?」
「できるわけないやろ」彼女の表情に釣られて、自分の顔にも力が入ってしまった。「こんなこと言うたって、頭おかしなったと思われて終いや」
「今までと変わるのが、怖いの?」
「え?」
「異常性を知られて、拒絶されるのが怖い?」
「ああ⋯⋯」曖昧に頷いた。「うん。そう、かも」
 俺の答えに、彼女は力強い視線だけを返した。大きな瞳が真っ直ぐ此方を向いている。受け止めきれずに再び顔を逸らしたが、すぐに、意識する間もなく、歪まない視界を求めて視線が彼女に吸い寄せられる。
 小さな顎と、赤い唇が目に入った。
「貴方と私だって、男と女よ」
「え?」
「ほら、もう違っているじゃない」
 そう言って、彼女は唇を緩やかに釣り上げた。
 しかし、言葉の意味を考える前に、試合終了のホイッスルが大きく吹き鳴らされた。次は自分のチームが試合に当たっていたことを思い出し、小さく舌を打つ。そんな俺の様子に、彼女はくすりと笑った。
「残念⋯⋯、今日は此処までね」
「まだ、此処におるんやろ」
「いいえ。そろそろ保健室に戻るわ」
「どっか具合悪いんか?」
「大丈夫。有難う」
 彼女は一度微笑んでから、舞台脇の階段を静かに降りていった。その背中を見送ってから、自分も舞台から飛び降りる。コートに向かう途中で、真崎とすれ違った。
 真崎の視線を感じたが、振り返らない。
 先ほどまで見ていた世界から一変した、いつもの、歪み揺れる視界に耐えるのが精一杯だった。