第一章 小暑

 
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 数日間に及ぶ期末考査が色々な意味で終わり、ようやく清々しい気持ちで帰宅ができる、というときに、真崎が進路調査の件で進路指導室に呼び出しを食らった。その上、なぜか俺まで一緒に呼び出されてしまい、俺たちは今、デスクの前で、二人仲良く並んで立っている。
「どうでしたか、期末考査」先生が、椅子を回転させて此方を向いた。定年を間近に控えた進路指導担当の先生で、社会科担当の教師でもある。
「そりゃもう、ばっちり」真崎がはにかんでみせる。「ズタズタのボロボロっす」
「だろうね」
 担任は、呆れたような声で相槌を打った。名護真崎といえば、課題は出さない、テストは赤点、抜群の運動神経を持ちながらどこの部活にも所属しない、そこそこ問題児なのである。ただ、真崎は人柄が良く、他人に迷惑をかけることは一切しない男なので、先生は制服への注意さえ既に諦めている様子だった。
「漢文だけは、全部答えられたんすけど」
「国語、得意なの?」
「他の教科より、その場でどうにでもなりそうじゃないですか、国語って」
「まあ、数学よりはどうにかなるかもしれない」
「進路調査票、やっぱ埋めないとダメっすか」真崎が突然話を切り出した。
「詳しくは知らんがね、家業ってものがあって、それを継いで働くことがもう決まっているんだろうし、気持ちは判るんだけどねえ」先生が腕を組む。「白紙同然は困る」
「嘘並べろってこと?」真崎が軽い口調で言った。
「そんな身も蓋もない言い方をするつもりはないよ」先生が此方を見たような気がする。「久遠くんは、ちゃんと埋めていたね」
「⋯⋯まあ、はい。適当に」
「いや、良いよ。確か⋯⋯、あったあった、第二希望が理学部ね⋯⋯、数学の成績も良いし⋯⋯、そういえば君、何で理系クラスに行かなかったの? ああ、いや、とにかくね、本当に行くつもりがあるかどうかは別にして、夢くらい持ったって構わんでしょう」
「夢、ですか」
「夢というより、もしもかな、もしも」
「そんなもん書いて、なんか意味あるんすか?」単刀直入な真崎の言葉。
「意味はある」先生は、少し声のトーンを落とした。「僕が怒られずに済む」
 一瞬の沈黙の後、真崎が耐えきれずに吹き出した。先生のためかよ、と笑いだしたところで、先生は進路調査票を返却した。真崎も素直に受け取っている。
「そんなわけで、まあ、今更進路を変更しろなんて言いませんから、適当に埋めといてね。別に、大学なんてものは働くために行くわけじゃないんだし、そもそも僕たちは、働くために生きているわけでもない。とはいってもね、此処は資本主義社会ですから、どうせ嫌でも働くのだし、それまでは好きなことをすればいいんじゃないかな。学びたいと思うものがあれば学んでみればいい。もしくは、何をするのか、それを探すための進学や就職でもいいのだし、旅に出たっていい。進路なんて、本当はその程度のもんですよ」そこまで話してから、先生は姿勢を崩した。靴のまま隣の椅子に乗せた足を組んでいる。少々足癖が悪いことで有名な先生なのだ。「僕だってね、まさか自分が教師になって、挙句、進路指導をするようになるだなんて、君たちの頃にはこれっぽっちも思っていなかった。そうだなあ、もしもその家業ってのが立ち行かなくなって、やることがなくなったらしたいことでも書いておきなさい」
「じゃあオレ、宇宙行ってみたい」
「そうそう。その調子」
「あの、先生」そろそろ話が終わりそうだったので、今のうちに、ずっと気になっていたことを訊ねることにした。「何で俺も呼ばれたんですか」
「だって君、名護くんを呼び出すと、いつも一緒に此処の扉の前までついてくるじゃない。それに、彼がちゃんと空欄を埋めるよう、君にも催促してもらえるかと思ったからね」
「はあ⋯⋯」
「せんせ、オレのことガキかなんかだと思ってねえ? 大体、狭霧の方がオレよりよっぽどガキだからな。朝なんてごねて全然起きねえし、ご飯も作れねえし、ゲームばっかりして怠けてばっかだし」
「へえ。しっかりしている印象でしたけど、意外だなあ。そうか、君たち、一緒に暮らしてるんだった。確か、実家は結構大きな寺院だと聞いたことがあるけれど」
「うっす。田舎だから、敷地が広いってだけですけど」
「ん? じゃあ、家業ってお坊さん? え? 君が?」
「なんでそんなに驚くんすか。オレ、もう僧籍持ってますよ」
「まさか、久遠くんも?」
「自分は持っていません」顔を少し上げて、自分の足許から先生に視線を移した。「まあ、僧侶になるというよりは、寺の運営⋯⋯、というか、そんな感じです」
「驚いたな」先生はいつの間にか足を下ろしていて、躰を前のめりに倒している。「なるほど、いつでも働けるわけだ。ははあ⋯⋯、だから君、課題を出さないの?」
「いえ。こいつが宿題をしないのは小学一年生のときからずっとです」
「なんだ、やっぱりそうか」先生が可笑しそうに言った。「名護くん、此処で書いていきなさい。そちらの方が、君も都合が良いでしょう」
 力の抜けた返事をしながら、真崎が先生の隣の椅子に腰かける。俺がその傍に立つと、進路指導室の扉が開けられた。開けたのは別の進路指導の先生で、数学の教師でもある。坊主頭に眼鏡をかけた男性なのだが、真崎曰く、やけに凶暴な顔つきをしているらしい。色物のスーツをよく着ているためか、どう見ても堅気には見えない、とのことだ。
 そして、その先生が引き連れていた生徒に、俺は二度見した。
 近衛、と呼びかけそうになり、慌てて口を噤む。
「カッターシャツのボタンは閉めろ、名護」俺たちの前を歩きながら、先生が言った。
「ういーす」
「まったく⋯⋯」先生は振り返って、後ろをついて歩く近衛の方を見た。「近衛、こっちだ」
 近衛は頷いてから、一瞬此方を見て、少しだけ微笑んだ。校舎の中で彼女を見たのは初めてだった。
 しかし、こうして見ると、誘拐された令嬢の図に見えなくもない。
 二人はパーテーションの向こうに消えた。すぐに、椅子を引く音と、紙を捲る音が聞こえてきた。
「この前の、進路調査のことだ」先生の声が、かなりしっかりと聞こえた。パーテーションの意味はあまりないようだ。
「ええ」近衛の声。
「なあ、こないだお前がオレに言ってた大学、どこだっけ」真崎が話しかけてきた。近衛たちの声を聞くのに必死だったので、慌てて携帯を取り出して、検索画面を見せた。「おー、さんきゅ」
「前まではちゃんと書いていたのに、なんでいきなり、白紙になった」
 驚いて、つい顔を上げてしまった。
「私には必要のないものです」この教室の中でも、彼女の声はひどく鮮明に聞こえた。
「必要のないってなあ、おい⋯⋯」紙を捲る音。「お前の成績ならどこにだっていける。全て合格圏内だ」
「私の成績と、私が白紙で出したことに因果関係はありません」近衛の返答は、此方が気を揉んでしまいそうなものだった。
「じゃあなんだ。何が理由だ?」
「先ほど申し上げました。もう、必要がなくなったからです。理由は今にご理解いただけるものと思います。もう宜しい?」
「今、その理由を話してほしい」
「お話ししたところで、先生はきっと、さらにその理由を話せと仰ることになるわ」近衛が即答する。「この問答の先は既に見えています。意味がありません」
「じゃあ、いつになったら話してくれるんだ」先生が訊ねた。笑みの混じった声音だった。少なくとも、良い意味ではない。
「遅くても、夏休み明けには」
「もしかして、躰のことか?」突如、声が潜められ、真剣味を帯びた。
「今は、その理解で構いません」近衛が立ち上がる音がした。「失礼します」
 慌てて俯き、真崎の方へ顔を向ける。真崎と先生は会話をしながら、空欄を適当に埋めている。あちらの会話は、あまり聞いてはいなかっただろう。
 パーテーションから、近衛が姿を現す。彼女の髪が視界に入り、抵抗虚しく、釣られるようにして顔を上げてしまった。彼女の横顔。前髪に隠れがちの目が此方を捉えると、彼女の小さな口が、また笑みの形に動かされた。
 後を追いかけようとして、すぐにやめた。
 引き止めて話すことなどないし、ましてや彼女の進路や体調について、自分が口出しするべきではない。自分にとっては彼女が唯一歪まないという特異な存在だとしても、彼女にとって、自分は何者でもないのだ。
 そもそも、彼女のことを信じない方がいい。あまりにも不可解な点が多すぎる。むしろ、疑うべきではないか。
 歪まない、というだけで、彼女の全てを肯定しそうになる。
 これではもはや、宗教のようだ。
 近衛の後ろ姿を視界の端に捉えながら、次に会えたときには、やはり色々と問い質さなければならない、と心に決めた。