第一章 小暑

 
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 自分は案外、他人を信じ易い性格なのかもしれない。
 近衛の背中が見えなくなるまでぼんやりとその場に立ち尽くした後、先ほど交わした会話を思い出しながら教室に戻った。教室を飛び出した理由を先生に訊ねられて、何か言い訳をしたような気はするが、あまり記憶はない。
 夢見心地を引き摺ったまま、上の空で授業を受けた。しかし、もう彼女が現れるはずもない窓の外を眺めるのは授業よりも退屈で、暇を潰すためにズボンのポケットの中に入れていた携帯を机の下で取り出す。何件か通知が来ていた。全て真崎からだった。マナーモードにしていたせいで、全く気が付いていなかった。どこだ、とか、どうした、といった内容のメッセージが立て続けに送られていて、既読にした瞬間、真崎が素早く振り返って、此方を見た。不服そうな顔をしている。多分。
 前を見ろ、という意味を込めて指を差すと、真崎の顔から赤色が出現した。舌を出したらしい。
 授業が終わり、礼を済ますと、真崎がまっすぐ此方に向かって歩いてきた。机の前に立ちはだると、親指で教室のドアの方を乱暴に指し示す。教室を出て、別の場所で話そう、という意味のようだった。真崎は片手にビニール袋を持っている。自分も鞄から昼食を取り出した。
 教室を出て、今日も屋上に向かった。階段を上り、立入禁止の鎖を跨いで屋上の扉を開けるまで、真崎は一言も喋らなかった。
 どうして教室を飛び出したのか、真崎はその理由を訊ねるつもりだ。先ほどは何と言い訳したのか覚えていないが、どうせ自分のことだから、突然の腹痛か、吐き気がしたかのどちらかだろう。腹が痛くなったことにしよう、と屋上へ足を踏み入れながら決めた。前回、初めて授業を抜け出したときに使用した理由と同じ言い訳である。
「どこ行ってた」扉を閉めると、真崎が低い声で言った。
「ちょっと、腹が痛くて」予め考えていた言葉通りに口を動かした。
「嘘つけ」真崎が振り返った。不機嫌そうな様子が伝わってくる。「トイレは全部確かめた」
「え?」予想外の回答に、思わず声が出てしまった。
「どこにもいなかっただろ、お前」
「確かめたって、いつ?」
「お前が出てってすぐ」真崎が腕を組む。俺も真崎も、屋上の出入口の傍で立ったままだ。「そういや、この前も抜け出してたよな」
「その時も、確かめた?」
「確かめてねえよ。その時は、本気で腹が痛えんだと思ったから」
 その言葉に、何も言い返せなかった。
 けれど、馬鹿正直に理由を告げたところで、どうなるというのだろう。
 信じるはずもない。
 信じてもらえるとも思っていない。
「なあ、狭霧」真崎の声量が、少し大きくなった。「オレらは、信用ありきの関係なんだぞ」
「それは」顔を上げて、すぐに俯いた。「そう、だけど」
 一瞬視界に捉えた真崎の顔も、勿論、歪んでいる。全身が、ちょうど台風のように、躰の中央に向かって渦巻いている。初めは、顔を見ようとするたびに気分が悪くなり、叫びだしたくなるのを必死に堪えていた。嫌悪感さえあった。誰よりも見慣れていたはずの真崎の顔が、化物のようにしか見えなかった。
 それでも、真崎と行動を共にし続けることができていたのは、彼の歪みが見事に静止していたからだ。それは俺にとって、大きな救いだった。
 その真崎の指先が、揺れている。
 非常に珍しいことだった。
「狭霧」真崎の声音が、少し柔らかくなったような気がした。自分がそう思いたいだけかもしれない。「隠しごとすんな、何もかもオレに報告しろ、なんて言わねえよ。だけど、嘘は困る」
「⋯⋯、ごめん」
「頼むぜ、ほんと」
「ごめん」何に対する謝罪だろう、と頭の片隅で思った。
「もういいって。この話、終わりな」真崎はすぐ近くの日陰に座り込むと、ビニール袋の中を漁り始めた。「さっさと食おうぜ。腹減ったわ」
「⋯⋯、うん」
 嘘を吐いた罪悪感か。
 隠し事をしている後ろめたさか。
 目を合わせることもできずに、
 気持ち悪い、と感じる自分がいることか。
 急に、粘ついた熱気を肌に感じた。蝉の鳴き声が洪水のように脳内へ流れ込む。それらを振り切って、真崎の前に座り込み、自分もビニール袋から昼食を取り出した。朝、コンビニに寄って購入した塩むすびが三つと、真崎が勝手に選んだ、やけに豪勢な鶏肉のサラダ。本当は海苔を巻いたおにぎりがよかったのだが、どういうわけか、この辺りのコンビニには味付け海苔のおにぎりが売られていない。
 真崎の前には、全種類を一つずつ取ってきたのではないかと思える量のパンが勢揃いしている。
「最近、弁当サボってごめんな」真崎が、コーヒーパックにストローを刺しながら言った。
「大丈夫。毎日、有難う」
「何? 珍しく素直じゃん」コーヒーを飲みながら、少し笑っているようだった。「まあ、冷蔵庫の整理も済んだし、明日からは作れるからさ」
「明日?」
「え?」真崎は驚いたように顔を上げた。「なんかまずいか?」
「いや、だって、明日は午前で終わるから」
「なんで?」
「なんでって⋯⋯、明後日から期末試験、だろ」
「⋯⋯、⋯⋯試験?」
「うん」
「期末?」
「うん」
「⋯⋯、へえ。頑張れ」
「頑張るのはお前だ」ペットボトルの蓋を開ける。「頼むから、赤点だけは回避してくれ。留年かかってるんだぞ、お前」
「補習受けりゃ留年はどうにかなるから、どうにかなる」
「どうにかなってんのが奇跡だって、何回も言ったよな、俺」
「二度ある奇跡は三度ある、ってな」
「仏の顔も三度まで、とも言うけど」
「お前ってさ、見た目のわりに結構真面目だよな。あ、いや、今は見た目通り?」
「うるさい」
「真面目とはちょっと違うかも」一度、真崎はパンを頬張った。飲み込んでから、また口を開く。「善人なんだよな、意外と」
「意外って、何が」
「だってお前、性善説信じてるタイプだろ」
 性善説は知っているのか、と妙なところで感心した。
「別に、信じてるわけでもないけど」しかし、真崎がそう分析するのならそうかな、とぼんやり思いながらお茶を一口飲み、おにぎりを食べた。
「ま、お前はそのままでいてくれよ」
「馬鹿にされてる気がする」
「してねえって。ほんと」
 そこからはお互いに無言で昼食を食べ、早めに教室に戻り、今からでもどうにかなりそうだった漢文の出題範囲を真崎に教えた。出題範囲も狭く、そのわりに配点が高い。経典を丸暗記しているのだから、これくらいは簡単に覚えられそうなものだが、本人曰く「やる気がない」とのことだった。
「お前、どうやって覚えたんだ、経典」
「恐怖だよ、恐怖」真崎がプリントを眺めながら言った。一つ前の席で後ろ向きに椅子に座り、背もたれで頬杖をついている。「あんときはな、親父と姉貴がすぐ傍で見張ってて、一文字でも間違えようものならどつき回されるわ蹴り回されるわで、覚えるしかなかったわけ」
「そんな切迫した感じか」
「そんな感じ」
「じゃあ、一文字間違えたら俺が一回どつく」
「お前じゃダメだな。簡単に避けられる」
「喧嘩売ってんのか」
「狭霧、これ音読してくれ」
「は?」
「先に音で覚えるわ。漢字は後付け」
「意味で覚えた方が早くないか」
「音そのものに意味があんの。お前だって、般若心経は音だけで覚えてるだろ」真崎が少し顔を上げた。「そういうこった」
「ああ、そう⋯⋯」反論できず、プリントを手に取る。確かに自分は、父や兄が唱える経を聞き続けたせいか、意味も知らずに音だけで覚えていた。「じゃあ⋯⋯、まず、白居易から」
「はくきょい?」
「人の名前」
「ふぅん」
「ええと⋯⋯、天に在っては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在っては願わくは連理の枝と為らん。これ」
「もう一回」真崎は目を閉じて、額か顳顬のあたりに指を添えている。もう一度音読を繰り返してやると、真崎はそっくりそのまま復唱した。
「もうちょい長くてもいける」
「まじで?」試してみたくなり、プリントの中から最も長い書き下ろし文を探した。「えっと⋯⋯、いくぞ。むかし、荘周、夢に胡蝶と為る⋯⋯」
 音読している間は身動ぎすらしなかったが、三回目の音読を終えると、真崎は淀みなく復唱した。意味も判らずによく覚えられるものだ、と素直に感心したが、その集中力を、せめて一週間前から発揮してほしい。
「凄いな。ちゃんと合ってる」
「よし、これで何点確保した?」
「七点くらい」
「少ねえな」真崎が、がくりと項垂れる。「しゃあねえか。プリント見せて、漢字覚えるから⋯⋯」
 真崎がプリントの漢文と睨み合いをしている間に、古典の教科書を取り出して、先ほど音読した漢文の現代語訳を流し読みした。
 どちらも、あまり意味は判らなかった。