第一章 小暑

 
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 数日が経った。あの邂逅は、文字通り、世界が変わるほどの衝撃だった。依然として、あれが現実だったとは受け入れることができていない。夢見心地とでも言うべきか、あれが白昼夢というものだろうか、と考えてしまうほどには懐疑的だ。
 この数日間、何度も彼女の姿を思い出した。あまりにも強烈で、嫌でも思い出してしまう、と言った方が正しい。気が付いたら朝で、気が付いたら学校で、気が付いたら家で、気が付いたら寝ているのだ。
 何を見ても、あの日に結びつく。太陽光。コントラストの強い影、絵に描いたような青空。入道雲。そうだ、彼女は、陽炎であるかもしれない。教室の窓から校門の方をぼんやりと見下ろしながら、そんなことを思った。そこにあるのに、そこにはない。掴めそうで掴めない。だが、そこまで考えて、彼女を陽炎に喩えるのは大きな間違いだと思い至った。
 彼女は揺らめきなどしない。歪むことがない。
 教室に目を戻す。黒板の大部分が、文字で埋め尽くされていた。知らない間に、随分と授業が進んでいる。四時間目の授業は現代文だったが、新しい事柄を学ぶための授業ではなく、受験対策を意識した演習ばかりなので、予め問題を解き、授業でその解説を聞く、というものだった。志望大学や進路によってクラスが分けられている。俺も真崎も、括りとしては就職組なので、今も同じ教室だ。真崎は隣の列の三席前。思いきり机に突っ伏して眠っている。他の生徒も、ここまで露骨ではないものの、大体がうとうとと船を漕いでいた。多分。恐らく、船を漕いでいる。
 俺には、判別ができない。俺の目には、人間はすべて、歪んで視えている。
 歪み方は人それぞれで、渦を巻くように歪む人間もいれば、不規則に波打つように歪んだ者もいる。しかも、たちの悪いことに、それらは揺れ動くのだ。そのため、一つ前の席に座る男子生徒が、船を漕いでいるから頭が何度も動いているのか、それとも、自分の目には揺れて視えているだけで、実際は真面目に授業を受けているのかが判らない。
 正直、異常である。大変迷惑している。そもそも、誰もこのような話を信じるとは思わないし、原因も判らない。或る日、突然、こんな目になってしまったのだからどうしようもない。ただ毎日、常に揺れ続ける視界に耐えて、出来るだけ他人を直視しないようにして、出来るだけ酔わないようにするしかなかった。初めは何度も吐いた。目を抉ろうとして、鋏を握っていたこともあった。今でこそ鋏は握らないが、気分が悪くなることはよくある。
 一瞬、キャップも外していないマーカーペンを持つ自分の手を観察しようとして、すぐにやめた。ついでに、マーカーも手放す。思いのほか音がした。プリントの上に投げ出されたマーカーは、僅かに輪郭が歪んでいる。
 歪んで視えるのは人間だけではない。動物は大抵同じように歪むし、人間が触れたところも、しばらくは歪んで視えている。どうやら歪みは移るらしい。だが、いちばん厄介なのは、何よりも自分自身の歪みが酷いことだった。
 黒板の文字が消されていく。頬杖をついて、もう一度、窓の外に目を向けた。自分の席は、窓際の列の、後ろから二番目。快適な場所だ。
 また会えると、彼女は言っていた。隣のクラスだ、とも言っていた。しかし、自分は一度も彼女を見かけたことはない。隣のクラス。つまり五組か七組だ。五組なら、体育の授業が合同のはずだから、七組ということになるのだろうか?
 自分は、彼女に会いたいのだろうか。
 向こうは随分と此方のことを知っていた様子だったが、自分は彼女のことを何も知らない。気味が悪いとも思う。僅かな恐怖も感じている。
 それでも、聞きたいことが山ほどあるのだ。
 本当に、それだけか?
 彼女に会いたいと感じているのは、本当に、それだけの理由か?
 窓の向こう。
 校門に向かう生徒がいた。
 反射的に立ち上がる。勢いよく椅子が引きずられて、物凄い音がした。先生も、ほとんどの生徒も、此方を振り返っていた。真崎と目が合ったが、すぐに逸らして、先生に顔を向ける。
「すみません、少し、抜けます」先生の返事も聞かずに、俺は教室を飛び出した。
 真崎が俺を呼ぶ声が聞こえたが、廊下を走り、階段を駆け下りる。靴を履き替える時間さえ惜しくて、上履きのまま昇降口を突っ切り、校門近くまで走った。
 そこで、彼女と目が合った。
「あら。そんなに慌ててどうしたの?」
 俺の登場に驚いた様子もなく、近衛斎がおっとりと口を開いた。教室から見たときより、何歩か校門に近い位置にいる。
 俺はといえば、彼女の言葉で、自分が何も考えずに飛び出してきてしまったことにようやく気が付いた。あ、とか、えっと、とか、意味のない言葉しか出てこない。その様子を訝しく思ったのか、彼女は少し首を捻ったが、俺の足許を見てくすりと笑った。
「貴方、上履きのままよ」
「⋯⋯、判ってる」
「もしかして、私に会いたかった?」
「な、」図星です、と言わんばかりの反応である。「あ、いや、なんていうか、ええと⋯⋯」
「授業中に、私の姿を見つけて、衝動的に教室を飛び出した」
「ちが、その、⋯⋯はい」
 観念して頷くと、近衛は満足げに笑った。
「嬉しいわ。有難う」
「う、⋯⋯嬉しい?」
「ええ、勿論」近衛は目を伏せて、控えめに頷いた。
「あ、そう⋯⋯」軽く咳払いをした。「自分、今から帰るところ、なんか」
「早退するの」
「体調、悪い⋯⋯、とか?」
「あまり躰が丈夫ではないのよ」近衛は小さく肩を竦めた。「いつものことだから、お気になさらないで」
「じゃあ、あれは嘘か」自分の顔が、少し歪んだのを自覚した。もう少しで、舌打ちをするところだった。
「いいえ。授業を抜け出したのは、あのときが初めてよ」彼女はすぐに、あのときの会話を思い出したらしい。「確かに、何度も早退することはあるのだけれど、わざわざ授業の途中に早退したことはなかったわ。あのときから、すっかり味を占めてしまったの」
「大丈夫か、一人で」
 俺の言葉に、近衛は一瞬、ほんの少し、驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。
「もうすぐ、お付きの方が来るのではなくて?」
「え?」
「それとも、彼はまだ教室?」
「え、ああ⋯⋯、真崎のこと?」
「名は存じ上げなかったけれど」近衛は口許に揃えた指を添えて微笑んだ。知っていたのではないか、と直感したが、口にはしなかった。訊ねても仕方がない。
「どうかな、何も言わずに飛び出してきたから⋯⋯、でも、まさか、校舎の外にいるとは思ってないかもしれない」
「それもそうね」
「おい、待て」一度聞き流した言葉を思い出して、顔が引き攣った。「お前、まさか、そんなことまで知ってるのか?」
「そんなこと?」
「とぼけんな」一歩、近衛に詰め寄った。「今、お付きの人って言ったな。俺と真崎の関係まで知ってる証拠だろ」
「どうかしら」
 はぐらかすような彼女の態度が僅かに苛ついたものの、否定していない時点でほぼイエスだ。そういう、遠回しな、奥ゆかしい表現だったのだと自分に言い聞かせた。それに、近衛の言葉を信じれば、彼女は今、早退するほど体調が悪いのだ。どうにもそうは見えないが。
「⋯⋯判った、それは今度、問い詰める」
「私の体調を心配して下さったのね」
「ええから早よ帰れ」
「お言葉に甘えて、そうさせていただくわ」
 近衛の背中を見届けている間に、一つ、訊ねたいことを思い出した。声をかけると、近衛はゆっくりとその場に立ち止まり、躰を少し此方に向けるようにして振り返った。
「ごめん。一つだけ、今、訊きたいことがあって」
「ええ。どうぞ」
「自分、何組?」
「五組よ。三年五組」
 彼女の言葉を信じることに、ようやく、抵抗が生まれつつあった。