第一章 小暑

 
     2
 
「それで、わざわざ授業を抜け出して私に会いに来て下さったの?」
「そう」意味もなくズボンのポケットに入れた手を軽く握りながら答えた声は、随分と素っ気ないものだった。「幽霊かどうか、確かめに」
 昼休み、屋上に現れた一人の女生徒。
 この視界の中で、唯一歪まなかった異物。
 それが、彼女だった。
「でも、どうして五時間目の授業中に?」
「さあ⋯⋯」
 何となく、と口の中で呟いた声は、しかし彼女に届いたらしい。そう、とだけ答えた彼女は、静かに此方に向かって歩き始めた。
「私、人生で初めて授業を抜け出したの」彼女は隣に並ぶと、壁に背を軽く預けて立った。「快感ね。癖になりそう」
「⋯⋯そう、かな」
「ねえ。私の正体はお判りになって?」
 彼女は躰を前傾させると、覗き込むように顔を小さく傾げた。長い髪が、少し遅れて彼女の細い肩を滑る。髪の軌道。目許に落ちる睫毛の影。その一本一本までが、酷く鮮明に視える。不思議な気分だった。
「⋯⋯、聞きたいことがある」
「ええ」知っているわ、とでも言いたげな声だった。そして女はゆっくりと、美しい微笑の形をその唇に浮かべた。
 彼女の顔から目が離せずに、一瞬、妙な間をとってしまい、慌てて口を開く。
「その⋯⋯、」お前。君。貴女。咄嗟に呼び方を考えるが、どれも違う。「⋯⋯嬢さん、」これか。呼びかけとして適切かどうかは判らないが、この呼称は彼女の雰囲気に最も当て嵌まるような気がした。「誰?」
「近衛斎といいます」彼女は此方の逡巡を一切跳ね除けて、歯切れの良い発声で淀みなく答えた。「貴方の秘密を知っているだけの、ただの女子高生よ。久遠狭霧くん」
「秘密、な⋯⋯」先ほど、彼女の手で胸ポケットに仕舞われた眼鏡に触れる。
「ちなみに、クラスは貴方の隣」
 この女は、どこまで知っているのだろう。
 そもそも⋯⋯、なぜ、知っていた?
 いや、
 そんなことよりも。
 壁に預けていた躰を慌てて起こし、俺は彼女を正面から見据えた。
「なら、どうして、」そうだ。どう考えても可笑しいではないか。「可笑しいだろ。今の今まで、出会わずにいられるわけがない」
「あら。それこそどうして?」彼女は不思議そうに首を傾げた。「貴方は極力、他人を視ないように、関わらないようにしていたのでしょう? 私と出会う確率の方が低いわ」
「違う。そうじゃなくて⋯⋯、他人を視ないようにしていたとしても、関わらないようにしていたとしても、それでもお前のことだけは、嫌でも目に入ったはずだ」
「私だけが、歪まないから?」
 その言葉に、一瞬息が詰まる。上目遣いで此方を見た彼女は、じわりと目を細めた。
「どうしてかしらね?」
「⋯⋯、判らんのか」
 嫌味のつもりで放った言葉は、軽い微笑み一つで彼女に容易く打ち消されてしまった。幼稚な自分の対応に僅かな苛立ちを覚えた瞬間、視界の端で指先が大きく揺れる。それさえも腹立たしくて、俺は目の前に立つ彼女に意識を集中させた。
 改めて正面から見ると、女は非常に均整の取れた顔立ちをしていた。抜けるように白い肌と墨のように黒い髪。中心には小さな赤い唇。制服から覗く四肢は頼りなく細い。しかし、均等に配置された瞳には、女の外見には不釣り合いなほど力強さがある。前髪に隠れがちの墨色が此方を映すたび、意味もなく緊張してしまう自分がいた。もっともそれは、他人と目を合わせることに対する緊張も含まれている。何せ、数年ぶりなのだ。他人と目を合わせるのは。
「ねえ、久遠くん」
「え?」
 彼女は一拍分の間を取ると、僅かに困ったような、先ほどよりも少々柔らかい笑みを浮かべた。
「そこまで熱烈に見つめられると、なんだか少し、落ち着かないわ」
 彼女の言葉で、自分が瞬きも忘れて凝視していたことに気付き、一瞬にして顔が熱を持つ。
「いや、その、⋯⋯ごめん」
 慌てて顔を逸らしたが、あまり効果はない。視界の端に彼女を捉えるたびに、俺の視線は吸い寄せられてしまうのだ。そして、目が合うたびに、彼女は目を細めたり、唇を湾曲させたり、口角を少し持ち上げてみせたりするのだからたちが悪い。
 俺は抗うことを止めた。眉間に力を入れて、目を細めたまま彼女と向き合った。唾を飲み込む。乾いた喉を軽く鳴らしたが、わざとらしい咳払いにしか聞こえなかった。
「それで⋯⋯、あの。近衛、さん」
「あら」ぱちり、と目を瞬かせた。「もう、お嬢さんって呼んでくださらないの?」
「⋯⋯、そっちがいいんか」
「そっちがいいの」俺の言葉を真似すると、彼女は口許だけで微笑んだ。よく笑う女だ。
「俺のこと、いつ知った」
「貴方に出会う前から」
「は?」思いのほか大きな声が出てしまい、慌てて声量を意識する。「いや、何? それ」
「嘘よ」反応がつまらなかったのか、近衛は白けたような表情を浮かべて言った。「貴方のことをいつ知ったか、なんて、正確には覚えていないわ」
 嘘吐きはそちらの方だと思わず悪態を吐きそうになったが、その言葉はすんでのところで呑み込んだ。そもそも、突如目の前に現れて、此方の事情を知っている、などと嘯く女を、はいそうですかと信用する方がどうにかしている。
 けれど、確かに彼女は知っていたのだ。俺の異常を。彼女自身の、異常性を。
 思わず溜息を吐くと、彼女は不思議そうに此方を覗き込んだ。
「どうしたの? ご気分が優れない?」
「やっぱり、幽霊やろ、お前」
「まあ」わざとらしく声を上げた彼女は、これまたわざとらしく、とびきりの笑顔を貼り付けた。「やっぱり、そう簡単には信じていただけないのね」
「不気味がられるかも、とか、思わなかったのか」
「思わないわ。だって、私の自己満足でしかないのだもの」
 女の言葉の意味を、しばし咀嚼する。しかし、いまいち意味の判らない発言だった。
「目的は、何」
「貴方に出会うこと」
「だから、俺に会う目的」
「理由が必要?」
「なんで俺? 俺に近付く理由は?」
「今日は此処までね」近衛が少し顎を上げて言った。
 彼女の唇が上品に結ばれたのと、チャイムの音が鳴り響いたのは同時だった。いつの間にか、五時間目が終わったらしい。
 近衛が背を向けて、扉へと向かっていく。一瞬、彼女が僅かに振り向いて、黒髪越しに此方を見た。すぐに顔を前へ向ける。一拍遅れて緩やかな曲線を描く長い髪に、自分が見入っていることに気が付いて、誤魔化すように咳払いをして俯いた。
 彼女を追いかける形で、屋上の出入り口へと向かった。近衛はもどかしい速度で階段を下りているところだった。手摺に触れた指の跡を、つい、目で追ってしまう。そうして、近衛を追い抜くことができないまま、階段を下り終えた。束の間の休憩時間に騒ぐ生徒の声が、足音が、すぐ傍にある。
「あの」
 俺の呼びかけに、近衛は静かに振り向いた。
「⋯⋯また、会えるか」
「ええ」女は微笑む。「貴方が望めば、いつでも」