8/名護真崎
三連休直前の金曜日。授業を終えて、オレたちは制服姿のまま新幹線に乗り込んだ。横三列に並んだ座席で、窓側に近衛さん、中央に狭霧が座り、通路側に自分が座っている。
「すみません、急ぎでチケット取ったんで、狭いかもしれませんけど」着替えが入っているという彼女の小さなバッグを荷物棚に乗せながら、近衛さんに声をかける。
「嬢さん、新幹線も初?」狭霧は制服のネクタイを弛め、外した眼鏡を鞄の中に無造作に入れた。
「ええ」彼女が頷く。「電車よりも、振動や音が少ないのね。収納式のデスクまであるわ」
「車内販売もありますよ」席に座って、通路を指差しながら教えた。
「貴方たちの家まで、どのくらいかかるの?」
「新幹線は三時間くらいっすね」腕時計を確認する。「本当は、そこからまた時間かかるんすけど、今日は姉貴が駅まで迎えにくるんで」
「オレらの迎えに、わざわざ真墨が来るんか?」
「いや、オレが頼んだ」
「へえ⋯⋯」そう相槌を打ちながらも、狭霧は不思議そうに眉を顰めた。「珍しい」
「方丈の人間相手よりは、近衛さんも気が楽だろ、たぶん」
「それもそうか」
「姉貴の奴、今日電話したら、そもそもオレらが三連休に戻ってくることも知らなかったみたいで、歩いて帰ってこいとか言うから近衛さんのこともちょっと話しちまったけど、面倒な絡まれ方されたら、ごめんな」
「お気になさらず」彼女はにこりと微笑んだ。
狭霧は途中まで起きていたが、いつの間にか、鞄を抱えたまま静かに寝息をたてていた。車内販売でふたり分の飲みものを買い、ひとつを彼女に手渡す。彼女は時折それを飲みながら、あとは窓の外を眺めていた。窓の外は既に暗く、景色を楽しんでいるわけではないようだった。
「緊張してます?」狭霧を間に挟んで、彼女に小声で訊ねる。
「そうね」彼女は此方を見た。「できれば、久遠寺の皆さまとは顔を合わせることがなければいいと思っていたのだけれど」
「それは、罪悪感からですか?」
近衛さんはなにも答えなかった。
夜の九時前、狭霧を起こし、姉にメッセージを入れて駅のホームに降り立つ。
この駅は地元では規模が大きく、今も多くの人が忙しなく行き交っている。人の波を掻き分けてロータリーに出ると、見覚えのある車が停まっていた。すぐに、車は滑るように此方に近づいてくる。
後部座席の扉を開け、彼女の手を取って乗車を手伝う。狭霧が彼女の隣に乗り込むのを見届けてから助手席の扉を開けた。
運転席に座る姉は、珍しいことに、スーツを着用している。薄い茶髪も、普段より丁寧にまとめられていた。
助手席に座ってシートベルトを閉めると、車はすぐに走り出した。
「お帰り。それと⋯⋯」運転しながら、姉は一度、ルームミラーを確認した。「初めまして、名護真墨です。よろしく」
「初めまして。近衛と申します」
「下の名前は?」
「斎です」
「イツキちゃんね。どんな漢字で書くの?」
「ものいみ、と」
「物忌み?」姉は眉を持ち上げた。「ああ、斎食とか、斎場の斎?」
「ええ」
「気にしなくていいわよ」姉の言葉は、どこか唐突だった。「良い名前じゃない。ね、若さま」
「え、俺?」狭霧は驚いていたが、数秒悩んでから、おもむろに頷いた。「まあ⋯⋯、そうやな。俺は、その漢字、結構良いイメージあるけど。なんか綺麗な感じするやん。ものいみって読むとか知らんかった」
「あたしなんて墨汁の墨よ。弟だって、響きはともかく、名前にしちゃよくわかんない漢字だし」
「しれっとオレを巻き込むんじゃねえ」
「俺なんか狭い霧やぞ。いちばん意味わからんやろ」
「あら。貴方、お名前の由来を知らないのね」近衛さんが言った。
「由来?」
「良いお名前だと思います」彼女は首を傾けて微笑んだ。
「ふぅん⋯⋯」姉はハンドルを指で一度叩き、にんまりと笑った。「なあに、あんたたち、挨拶しに帰ってきたわけ?」
「挨拶?」狭霧が怪訝そうに訊ね返した。「父さんに呼ばれたから戻ってきただけやけど」
「あらそう」姉は可笑しそうに笑いを堪えている。
「なあ、姉貴、オレたち晩飯まだなんだけど、家にある?」
「どうかしらね。お母さまが簡単に作ってくれるかもしれないけど。今のうちに頼んどけば?」
「そうする」携帯を取り出してメッセージアプリの画面を開いた。
「どうかした?」
「なにが?」
「あんたじゃなくて、斎ちゃん。さっきからずっと、ルームミラー越しに目が合うから、どうかしたのかと思って」
「ごめんなさい、はしたなかったかしら」
「いえ、全然」姉は少しだけ振り返り、近衛さんに微笑みかけた。
「名護くんとお顔立ちが似ていて、つい見つめてしまったの。お話に聞いていたイメージとも、かなり違っていたものだから」
「どうせ、あんたがろくでもないこと言ったんでしょ」姉が横目でオレを見る。
「怪力ゴリラだって話しかしてねえもん」
「充分アウトよ、バカたれ」
「仲が良いのね」近衛さんの囁くような声が聞こえた。オレたちに気を遣ったのか、狭霧にだけ話しかけたようだが、オレの耳にもしっかり届いている。
「これって仲良いんか?」狭霧も小声で話す。「わりと上下関係あるけど」
「上下?」
「真墨にしょっちゅうこき使われとるで」
「ちょっと。全部聞こえてるわよ」姉がハンドルを回しながら口を挟んだ。
助手席から後ろを振り返ってみると、狭霧はおどけるように少しだけ肩を竦めた。
しばらく、車中に沈黙が降りた。車の低い振動音の他にはなにも聞こえない。窓の外は静かな夜に包まれている。並び立つ高い建物や人混みは既になく、暗闇の中で、一面に田畑が広がっていた。
「結構田舎でしょ」姉が言った。「移動がちょっと不便だけど、悪いところじゃないわ。今日と明日は家に泊まっていくのよね?」
「近くのホテルで良いと申し上げたのですけれど、おふたりに止められてしまって」
「そりゃそうね。ホテル捜すほうが大変よ」姉が笑った。「部屋なら余ってるし、気にしないで」
「ありがとうございます」
「こっちにいる間、行きたいところとかあったら遠慮なく言って。あたしが車出してあげる」
「いえ、そんな⋯⋯」
「むさ苦しい男どもばっかりだから、家にいたってきっとつまんないわよ。連休中、ずっと家に用事があるわけじゃないんでしょ?」
「たぶん」彼女の代わりに、自分が答えた。
「若さまの話、いっぱい聞き出したかったのよね」
「話すようなことなんて、なんもない」狭霧が口を挟む。
「外野は黙ってなさい」
「いや、俺、当事者なんやけど⋯⋯」
車は山を登り、駐車場で停止する。彼女の荷物はオレが持ち、姉が彼女の手を引いて階段を上った。森は黒く、葉が擦れる音と虫の声が不気味な静寂を際立たせている。
階段が終わり、門に続く道を歩く。
門を抜けて少し進むと、灯りと共に何人かが姿を見せた。
「お帰りなさいませ」ひとりが頭を下げる。「若、ご無事でなによりです」
「ただいま」狭霧が声をかける。
「あたし、先に報告してくるから。あとはよろしく」姉はそう言い残して奥に向かった。すぐ、暗闇に姿が消える。
方丈の男たちが、数人出迎えにきてくれたらしい。
顔ぶれを確認しながら、自分も、狭霧の隣に行こうとした。
けれど、僅かな力が、制服の裾を引く。
歩みを止めた。
振り返る。
近衛さんが俯いていた。オレの服の裾を握っている。
「どうした?」
そう声をかけても、彼女は俯いたまま。
けれど、シャツを摘まんでオレを引き止めた手は幽かに震えている。
狭霧は少し前のほうで、出迎えにきた男たちと話をしているようだった。
「近衛さん?」
「だめよ、」
「え?」
「どうして、」
「おい、大丈夫か?」
「そんな、」服を握る指の力が、強くなった。「お願い、名護くん、今すぐ戻って、」
けれど、
オレと彼女を、影が覆う。
オレは、
息を止めながら、前を振り向いた。
音もなく。
久遠陽桐が、立っていた。