7/久遠狭霧
結論から言えば、応援合戦のダンスは最後まで踊り、学年対抗競技では追い抜かれることもなくバトンを繋ぎ、真崎はスウェーデンリレーのアンカーで独走してゴールテープを切った。
近衛には「見るな」と言ったものの、結局自分が意識してしまい、手を抜きたくても抜けなくなってしまった。自分の視界では、彼女をすぐに見つけてしまう。ただでさえ、長袖のジャージと白い帽子は目立つのだ。
俺が手を抜いたところで、真崎も近衛も、なにも言わなかっただろう。
けれど、そういうわけにもいかなくなった。真崎に気を遣わせたいわけでも、近衛にあんな表情をさせたかったわけでもない。真崎とは、また昔のように笑い合えたらと思っている。近衛が俺たちのために、体育大会に初めて出席したことだって、嬉しいと思っている。
俺は、ふたりを、此処に繋ぎ止めておきたいのかもしれない。
いとも容易く命を投げ出せてしまうふたりだ。だからこそ、少しでも、ほんの少しでも、足止めできる存在でありたいと、不相応に願っているのかもしれない。
真崎は、ずっと傍にいてくれた。視界が歪んだ日から、俺が怒りを撒き散らしても、眼鏡をかけて口を噤んでも、態度を変えても、真崎は変わらず隣にいた。真崎は俺に、なにも訊ねなかった。けれど、目を潰そうとする俺を止めてくれたのはいつも真崎だった。吐き戻したときに背中をさすってくれたのだって、いつも真崎だった。真崎がいなければ、自分は今、こうして生活できていなかった。
謝りたい。けれど、それ以上に感謝している。
歪む視界の中で、支えてくれた真崎に。
歪まない視界を与えてくれた、近衛に。
俺が今、こうして生きていられるのは、きっとふたりのおかげだ。気が狂いそうな日々を切り抜けて、どうにか寄る辺を見つけられたのは、彼らのおかげだった。
謝ったところでどうにもならないというのなら、自分も、彼らの力になりたいと思う。
助けたい、と思う。
実家から。彼が背負う役目から。
組織から。彼女が背負う罪の意識から。
解放してやりたい。
生きてほしいと、無条件で願っている。
ただの少年のように、笑ってほしい。
ただの少女のように、笑ってほしい。
それさえも、過ぎた願いとなってしまうことが許せない。
武器など持たない日々を過ごせばいい。毎日三食、食べることが当たり前になればいい。心の底から笑って、泣いて、怒ればいい。それさえも許されないのであれば、俺がそれを許さない。
そう、思っているのに。
実際のところ、俺は真崎に気を遣わせてばかりで、彼女にだってなにも伝えられていない。力になりたくて、けれど距離を測りあぐねたままだ。
息を吐き出す。
目眩のような電車の小さな揺れを、躰が感じ取った。ようやく、意識が躰の外側に向けられる。
体育大会を終え、俺たちは電車に乗っていた。隣には近衛が座っている。自分の前には真崎が立っており、細いポールを片手で掴んでいた。
「ふたりとも、お疲れでしょう」潜められた彼女の声は、しかしとても明瞭に耳に届いた。「今からでも、お家に帰ってお休みになられたほうがいいと思うのだけど」
「そんなことより、オレらの活躍見てくれました?」真崎が腰を屈めながら言った。
「もちろん」彼女が笑みを見せる。「ふたりとも、とても素敵だったわ。貴方の言うとおり、体育大会に出席して正解でした」
「それなら良かった」真崎の声にも笑みが混ざっていた。「オレらはあの程度、べつに疲れやしませんよ。実家は山だったから、毎日のように山を登り下りして、猿みたいに駆け回ってましたし。どっちが階段を早く駆け上がれるか勝負するのが、小学生時代のオレたちの遊びだったな」
ふたりの会話が落ち着くと、電車の振動と同時に携帯が短く震えた。マナーモードにしていた携帯をズボンのポケットから取り出し、画面を確認すると、父の名前が表示されている。メッセージ画面を開く。意外な文面だった。思わず、隣に姿勢よく腰かけている彼女の様子を伺う。すぐに此方の視線に気づいた近衛は、口角を僅かに持ち上げて首を傾げた。
もう一度、携帯の画面に視線を落とす。
彼女に話すのは、真崎に相談してからでも遅くはないだろう。
そう判断して、彼女には「あとで話す」と小声で伝えた。彼女はひとつ頷いて、顔を正面に戻す。
電車を降り、駅を出て病院に向かった。待合室のソファに座って、診察中の彼女を待つ間、先ほど父から受け取ったメッセージの内容を真崎に伝える。
「実家に、近衛さんを連れてこい?」真崎は声のトーンを落とし、独り言のように呟いた。「そりゃまた⋯⋯、少なくとも、良い話じゃなさそうだな」
「やっぱり、そう思うよな」
「陽桐さまを通すでもなく、オレの親父を通すでもなく、照雪さまがお前に直接連絡してきてんだ。相当やべえだろ」
「どうしよ、いや、拒否権は初めからないんやけど」
「面倒なことになったな⋯⋯」真崎が舌を打つ。
「夏に帰省したとき、無理やり切り上げてこっちに戻ってきたのに、結局なんの整理もできんまま、また顔出さなあかんのか」
「たしかに、その辺の不信感はあるけど、現状いちばん安全な場所だってことは事実だ」
「安全、な⋯⋯」
「照雪さまは、いつ連れてこいって?」
「今月の三連休」
「めちゃくちゃ急ぐじゃん。うーわ、まじかあ」真崎は両手で顔を覆うと、ソファに座ったまま背を仰け反らせた。「すんげえ嫌な予感する⋯⋯」
「そんなにやばい?」真崎らしくない言動に、少々不安が掻き立てられる。「父さんに、今は無理って返しとこか?」
「照雪さまにそんなこと言えるの、たぶん、お前くらいだわ」
「だって、自分の父親やし」
「いや、行こう」真崎は手を下ろして、躰を起こした。「不本意だけど、いちばん情報をゲットできるのはやっぱり実家だし。今後のためにも、オレはもう少し現状を把握しておきたい」
「お前がそれでいいなら、俺も従う」
金曜日の夜に帰る、と父に返事を打ち終えたところで、院長が姿を見せた。
診察室で、院長から今日の診察結果の説明を受ける。特に異常もなく、かといって劇的な改善もない。しかし院長は、この調子でいきましょう、としきりに言葉を繰り返した。
「悪くなるときは一瞬です」院長は最後にこう言った。「良い変化が見られず、焦ったり、拍子抜けしたりするかもしれません。大丈夫です。悪い変化は目につきやすく、とてもわかりやすいものですが、良い変化とは、どうしてもわかりにくいものですからね」
「わかりました」
「ところで、体調はいかがですか?」唐突な質問だった。
「誰の体調ですか?」
「貴方です。以前、椅子から立ち上がった際に少しふらついていましたから」
「ああ⋯⋯」院長の言葉に、曖昧に頷く。「大丈夫です。よくあることというか、そんなに気にならないので。健康診断でも、毎年、特に問題はありませんし」
「なにか気になることがあれば、いつでも」
「ありがとうございます」
三人で病院を出て、帰りの電車に乗った。最寄り駅で降りてから、途中まで彼女と帰路を共にする。
分かれる手前で、俺は近衛に、父から届いたメッセージのことについて説明した。