第五章 寒露

     2/名護真崎

 六限目の体育が始まってすぐ、近衛さんの姿を見つけた途端、狭霧は露骨に顔を顰めた。制服のまま体育館の舞台上に腰かけた彼女は、狭霧とは対照的に優雅に微笑んでいる。
 体育大会の応援合戦に向けて、この時期、体育の授業ではダンスの練習が行われる。体育大会は学年縦割りのブロック対抗で競技の勝敗を争う行事だが、そのプログラムの中でも全校生徒が参加しなければならない競技のひとつがダンスによる応援合戦だ。事前に申請をすれば制服や体操服以外の衣装を着用することも可能で、どのブロックでも毎年趣向を凝らしたパフォーマンスが披露される。
 ただし、半数ほどの生徒はダンスを恥ずかしがったり嫌がったりする傾向にあり、狭霧もその内のひとりだった。今日は特に、音源に合わせていつも以上に覇気なく手足を動かしている。
 一方で、五組の生徒にもかかわらず六組の練習風景を見学する近衛さんの姿に、クラスの男子生徒は密やかに騒めいた。
 休憩の間も、狭霧が彼女に話しかけることはなかったが、視線は常に遠くから彼女の姿を追いかけていた。指摘してみると露骨に視線を外し始めたので、どうやら無意識だったらしい。生物が歪む視界というものをオレは想像することしかできないが、唯一歪まない人間を常に視界に入れてしまうのも無理はない。
 七限目の授業が終わったあと、学校の最寄駅で彼女と待ち合わせた。以前に訪れた海とは逆方向に進む電車に乗り、三駅先で下りる。駅を下りて、すぐ目の前が総合病院だ。ちなみに、その隣にはショッピングモールがあり、そこそこの賑わいを見せている。
 病院に入り、受付を済ませるとすぐに隣の棟の診療室に案内された。彼女は診療室のベッドに腰かけて診察を受け、狭霧は丸椅子に座ってその様子を眺めている。オレは狭霧のすぐ後ろに立った。
 彼女の怪我の状態を確認し終えた院長は、椅子を回転させて狭霧のほうへ向き直る。
「怪我の治りは順調ですよ」院長はカルテを片手に持った。「それにしても、よく今まで生活ができていましたね」
 狭霧は曖昧に頷きながら、ベッドに座る彼女へ視線を向ける。診察のために脱いでいたセーターを着直して、彼女は髪を両手で後ろに払うと、わざとらしくにこりと微笑んだ。
「食事はどうですか?」
「こんくらいの、ちっちゃいおにぎりを一日一個から始めてます」狭霧は片手で大きさを示した。
「そうですか。ええ、それくらいの量から、少しずつ慣れていくのがいいと思います。これからも続けてください。できれば鉄分の多い食材を意識していただければ幸いですが、とりあえず、しばらくは通常の栄養剤に加えて鉄分補給用の錠剤をお出ししておきます」
「結局、彼女の体調不良は貧血と考えていいんでしょうか」狭霧が訊ねた。
「そうですね⋯⋯」院長は片手を顎に添えて少し俯く。「たしかに、近衛さんは、血液中のヘモグロビン量が基準値を大幅に下回っています。しかし、これはなにかの病気による症状ではありません。彼女の場合は、元々ヘモグロビン量の少ない血液組成をしているためだと思われます。これは人工的に作られた未確認の血液型でしたが、名護さんの血液で輸血が可能だったことは不幸中の幸いでしょう。しかし、あくまで緊急時の最終手段です。万が一のことを考えて、彼女の血液を定期的にストックできれば良いのですが、今の彼女からさらに血液を抜くのはかなり危険です。まずは彼女の体調を安定させることを目標にして、それから考えていくべきかと」
「ヘモグロビン自体を増やすことはできないんですか?」
「ヘモグロビンというのは、鉄分を多く含むヘムと、ヘムタンパク質が結合したものです。つまり、体内の鉄分が減ると、ヘモグロビンも減少します。しかし、彼女の場合、ヘモグロビンの代わりに銅を用いた組成が僅かに確認されています。ですから、実のところ、ヘモグロビンを増やしても改善に繋がるかどうか⋯⋯」
「とりあえず、まずは飯を食って、鉄分を意識してみて、近衛さんの体調が少しでも良くなるかどうかを確認していきたいってことですか?」
 オレが訊ねると、院長は頷いた。
「不確かなことしか言えず、申し訳ありません」
「いえ⋯⋯」狭霧が頭を下げる。「あの、そういえば、ものすごく今さらなんですけど、入院費用はどうなりますか」
「それでしたら、彼女の細胞を研究用にご提出いただくことで、費用は全額此方が負担することになりましたよ」院長は近衛さんのほうを見た。「まだ、お話されていなかったんですね」
「ええ」近衛さんが頷く。
「入院費全額負担?」狭霧が驚いたように呟いた。
「彼女の細胞に、それだけの価値があるということです」院長はゆっくりと述べる。「細胞の寿命を決定づけているのは、染色体の末端に存在しているテロメアという構造です。テロメアは細胞が分裂するたびに短くなり、最後には分裂ができなくなります。しかし、テロメラーゼと呼ばれる酵素が活性化することで、テロメアが伸長し、細胞を分割し続けることができる⋯⋯、つまり、細胞の不死化です。しかし、これは癌細胞で顕著な現象であることからもわかるように、テロメラーゼのスイッチを入れることは癌化に繋がります。一方、彼女の細胞では、そのテロメラーゼによりテロメアの長さが比較的維持されているにもかかわらず、不純物を徹底的に排除する機構のためか、癌化を事前に食い止めながら自己細胞のまま、細胞を分割し続けるわけです。彼女の驚異的な回復能力の秘密がこれにあるのではないか、と私たちは考えております。このしくみが明らかになれば、新たな癌治療のアプローチだけでなく、老化した組織機能の回復といった、医療技術の大きな転換点になることは間違いありません。それだけでもたいへん価値があることがおわかりいただけるかと思いますが、勿論、彼女の特殊な血液も大きく関わっていると考えられ⋯⋯、ああ、すみません。少しお話が長かったでしょうか」
 院長による解説をその場で理解することはほとんどできなかったが、意識を取り戻した彼女が狭霧に平手打ちを喰らって口内で出血した際、すぐに治る、と言っていたことを思い出した。あれは気休めの言葉などではなく、事実だったということだ。考えてみれば、屋上から飛び降りたときも、いくら減速したとはいえ彼女が意識を取り戻したのは奇跡に近い。
「そもそも、近衛さんは研究施設からの脱走者であり、研究施設としても、そして国家としても、これはなんとしてでも隠蔽したい事実です。絶対に流出を阻止しなければならないわけですから、莫大な予算を注ぎ込んででも彼女の確保と事実隠蔽を図るでしょう。それを思えば、今回の入院費用など安いものです。費用を負担するだけで、それほどの価値を持つ情報を我々が握ることができる、ということですからね。久遠寺の方々でしたら、此方のほうが理解しやすいかもしれません」
「そうですね。そちらのほうが、俺にはわかりやすかったです」狭霧が頷いた。
「他に質問はありますか?」
「いえ、今のところは」
「わかりました」院長は椅子を回転させ、近衛さんを見た。「近衛さんはいかがですか?」
「特にありません」
「では、本日は以上です。これからは定期的に通院していただくことになります」
「はい。どうぞよろしくお願いします」狭霧は頭を下げてから椅子から立ち上がった。
 いきなり、狭霧の背中が大きく揺れる。
 オレは咄嗟に狭霧の両肩を掴み、自分のほうに狭霧の躰を寄せて支えた。
「おい、大丈夫か?」
「ごめん、なんか立ち眩みして⋯⋯」狭霧は片手で目を覆っていたが、すぐに、腕を下ろしながらその場に立ち直る。それを確認してから、オレは肩を掴んでいた手を離した。
「大丈夫ですか?」立ち上がった院長も、心配そうに狭霧の顔を覗き込んだ。
「すみません、大丈夫です。最近、たまに目眩がすることがあって」
「オレ、それ初耳なんだけど」思わず眉間に力が入る。
「大丈夫やって。たぶん、目のせいやし⋯⋯」
「久遠さんも、食事の際は鉄分を意識してください」院長は微笑みながら言った。
 ベッドから下り立った近衛さんは、狭霧の様子を見守りながら、少し眉根を寄せている。
 しかし、オレの視線を感じ取ったのか、彼女はオレと目を合わせるや否や、瞬時に表情をいつもの微笑みに切り換えてみせた。