第四章 白露

     6/名護真崎

 オレは狭霧と、院長の後ろを並んで歩く。
 近衛さんの病室は、この棟の十八階にあった。此処は特別病棟と呼ばれる建物らしく、ホテル並みのサービスが取り揃えられている。中でも最奥の病室は、この病院で最も高額な部屋だという。彼女はそこにいた。
 中に入ってみると、ベッドはなく、テレビや冷蔵庫が設置されたリビングのような部屋が広がっていた。医師の診察が落ち着くまで、オレたちはソファに座って待つ。
 三十分ほどしてから、部屋の奥のドアが音もなくスライドされた。
 大きなベッドと、大きな窓。
 ベッドの真っ白なシーツと濃いグレィのカーペットが対照的な部屋だった。
 窓は重たい色のカーテンで覆われている。
 彼女と目は合わない。
「一時間後、警察の方がお見えになるそうです」院長はオレたちに耳打ちした。「私はそれまで、席を外しています。なにかあれば、連絡用の電話で内線をおかけください」
 院長が扉を閉める。
 途端に、静かになった。
 狭霧は何度か躊躇いながらも、ベッドの傍に立つと、彼女の名前を呼んだ。しかし、近衛さんは、外が見えない窓に顔を向けたまま、狭霧を見ようとはしない。
「良かった」狭霧の声は少し震えていた。「ほんまに、助かって、良かった」
 オレは、病室の右手に置かれていた椅子に腰かける。半円状に背もたれが立ち上がっており、その端に肘を置いた。
「体調は大丈夫か。その、調子悪かったら、出直すけど⋯⋯」
「どうして私を助けたの?」
「え?」
 近衛さんは、緩慢に顔を動かした。ベッドに寝転んだまま、狭霧を見上げている。
 そこに笑みはなかった。
 眉を少し寄せて、狭霧を睨んでいる。
「全て想定外だったわ。木の枝に引っかかって失速してしまったことも、名護くんの血液型も、貴方が病院を捜していたことも⋯⋯」近衛さんは、さらに目を細める。「どうしてそんなことをしたの?」
「そんなん、なんでって、お前が心配で⋯⋯」
「どうしてあのまま、放置してくれなかったの?」
「そんなこと、できるわけないやろ!」狭霧が声を荒げる。「お前、さっきからなんやねん。兄貴の病院捜しと真崎の輸血に助けられといて、そんな言い草ないやろ」
「私は、助けてほしいと頼んだ覚えはないわ。貴方たちが勝手に助けたのでしょう」
「お前」狭霧は低く唸るように言った。「言うてええことと悪いことがあるぞ」
「貴方のせいで、死ねなかったのよ!」近衛さんが叫ぶ。「誰にも見つからないはずだったのに、私の血液型のストックなんてこの世のどこにもない、そうよ、貴方たちが私を助けようだなんて思わなければ、私は、予定どおり死ぬことができたのよ!」
 狭霧が突如、近衛さんの胸ぐらを掴んだ。
 咄嗟に立ち上がるが、狭霧の手が震えているのを見て、制止のタイミングを逃してしまう。
「真崎に謝れ」引っ張り上げて、顔を近づける。「今すぐ謝れ。死にたくもないくせに死にたいようなこと言いやがって、大概にせえよ」
「嘘じゃないわ」
「俺のためとか意味わからん理由で誤魔化して、お前の本心はまるで無視や。そんなん、嘘みたいなもんやろ」
「貴方たちを解放してあげたかったのは、間違いなく私の本心よ。それを、貴方が否定しないで」
「それが意味わからんって言うとんねん。俺は、お前がどうしたいかを訊いとるんや」
「そうね」突如、彼女は微笑んだ。「私、そうやって貴方に嫌われてから、飛び降りれば良かったわ」
 次の瞬間、乾いた衝撃音が病室に響いた。
 不気味なほどの静寂。
 彼女は、狭霧に左手で胸ぐらを掴まれたまま、横を向いて俯いている。彼女の髪が、頬を疎らに覆っていた。覗いた彼女の頬は、僅かに赤く腫れている。
 狭霧が彼女の頬を平手打ちしたのだと理解するまで、数秒を要した。
「ふざけんな」たしかな怒気を孕んだ、低い声。「ふざけんな!」
 彼女の胸ぐらを掴んでいた手を離すと、狭霧は振り返ることなく病室を出て行った。慌てて呼びかけるが、それに答えたのは、乱暴に閉められたドアの音だけだった。
 狭霧を追いかけようとしたが、視界の端で捉えた近衛さんが微動だにしない様子を見て足を止める。
「大丈夫ですか?」ベッドの傍に立ち、少し腰を屈めて顔を覗き込む。
 彼女の表情を窺い見ることはできない。
「口の中が切れたみたい」
「え?」
「血の味がするわ」
「嘘だろ、あいつ、手加減してねえのか」部屋を出て、冷蔵庫の中を確認する。製氷機があったので、鞄の中からビニル袋を取り出して氷を詰め、タオルで包んで病室に戻った。「一応、先生呼んでくるんで、これで冷やしていてください」
「呼ばなくてかまいません。すぐに治ります」
「いや、でも⋯⋯」彼女とようやく目が合った。続きを言葉にするだけ無駄だと思わせる視線だった。「わかった、呼びません。だからせめて、寝転んで、ちゃんと冷やしてくれませんか」
 返事はなかったが、すぐに幽かなシーツの音をたてて彼女は大人しく寝転んだ。タオルで包んだ即席の氷嚢を手渡すと、彼女は両手でそれを持ち、恐る恐る頬に触れさせる。
「あいつがあんなに怒るところ、ひさしぶりに見ました。オレも昔は、狭霧としょっちゅう殴る蹴るの大喧嘩してたけど」
「貴方たちは、ずっと仲が良いのだと思っていたわ」
「仲が良いどころか、家族だからこそ何度もぶつかってましたよ。狭霧も今みたいに大人しくなかったし。でも、あの喧嘩があったから此処までやってこれたんだろうな、とは思っています」
「貴方の血液型は、本当に想定外でした」近衛さんはその話題を避けるように、唐突に言った。「でも、いちばん想定外だったのは、貴方が私を助けたことかしら」
「狭霧のあんな必死な姿を見せられたら、きっと、誰だって助かってほしいと思いますよ」枕許に置かれていた簡素な丸椅子に腰かける。
「嘘じゃないのよ」
「なにがですか?」
「あの人は、嘘だと言ったけれど⋯⋯」彼女は伏し目がちに呟く。「貴方たちを助けたいと思った気持ちは、嘘じゃないわ」
「飛び降りることが、オレたちを助けることになりますか?」
「私には、こうすることでしか貴方たちを助けられなかった」彼女は目を閉じる。「貴方たちを巻き込むことを選んだのも、貴方たちを危険に晒したのも私です。だから私は、どんな罰でも甘んじて受け入れるわ」
「オレ、ずっと気になってたんですけど」話を切り出すと、彼女は一度瞬いて、静かに此方を見上げた。「あんたはどうして、そんなに狭霧を大事に思ってるんすか」
 近衛さんは静かに、けれど強い視線でオレを見据えている。しかし、なにも話そうとはしない。答える気はない、ということか。それとも、彼女も答えを掴みあぐねているのか。
「さっき、近衛さんのこと、院長から聞きました」すぐに話を切り換える。
「そう」
「研究施設から脱走したって、本当ですか」
「ええ」近衛さんはオレから顔を背けた。「ごめんなさい。少し疲れたわ。しばらく、ひとりにしていただけるかしら。貴方の質問にはいずれお答えします。もっとも、あの人はもう、私のお話なんて聞きたくもないかもしれないけれど⋯⋯」
「あいつは、どうでもいい奴相手に本気で怒るような男じゃないですよ」
 オレの言葉に、彼女は此方を上目遣いに見ると、ようやく控えめに微笑んだ。