第二章 大暑

     8

 すぐに戻ってきた真崎は再び彼女の向かいに座り、近衛の様子を見守っていた。近衛の前に置かれた皿の上には、海苔が巻かれた小さなおにぎりが乗せられている。
「本当は手で掴んで食べるのがおすすめなんですけど、抵抗あるかもしれませんし、お箸でどうぞ」
「嬢さん、箸持てるんか?」
 俺の質問に、彼女は無言のまま箸を持つと、此方を見て微笑んだ。手本通りの持ち方だったが、動かしにくいのか、何度か空中で挟む動作を練習している。
「素手では握っていないから、安心してくれ」真崎が言った。
 直接触れていないことは、歪んでいないおにぎりを見ればわかる。多分、ラップ越しに握ったのだろう。
 おにぎりの端のほうを切り分け、小さな一口を彼女が口に運んだ。あまり見つめるものではない、と理解はしているのだが、どうしても彼女の様子に注目してしまう。初めての食事に立ち会う機会など、滅多にないことだ。
 近衛は控えめに咀嚼をして、ようやく呑み込んだ。
「どう?」静まり返った空気の中で、真崎が恐る恐る訊ねた。
「これが食味?」近衛は幽かに眉を寄せ、怪訝そうな表情を見せる。「それに、不思議な食感ね」
「食べられそうですか?」
「ええ。美味しい、の定義はわからないけれど、想像していたより食べやすいわ」
「良かった」真崎は安堵の息を吐いた。
 彼女はさらに一口食べた。どういうわけか、人形か、或いは精巧に作られたロボットが食事をしているところを目撃してしまったような、奇妙な感覚がする。彼女は自分の視界の中で、唯一人間の形を保っているにも関わらず、だ。もしかすると、既に自分にとって、生物は歪んでいることが普通になりつつあるのかもしれない。
 そんなことを考えながら頬杖をついて眺めていると、近衛と目が合った。
「さっきはごめんなさい」彼女は緩やかに微笑む。「貴方に、あんな態度をとってしまって⋯⋯」
「どの態度のことかわからん」きっと、一度目に部屋を訪ねたときのことだろう。「やから、べつに気にせんでいい」
 気にしていないような態度を装って強がってみせたが、真崎がわざとらしい笑みを浮かべて此方を見ているような気がして、どうにも決まりが悪い。
 頬杖をついたまま横を向いて視線を逸らすと、やはり真崎の笑い声が聞こえてきたので、机の下で真崎の足を蹴っておいた。
「そういえば、貴方たち、晩ご飯のあとのご予定は?」近衛が訊ねた。
「晩飯食ったら、一度家に戻ります」真崎が俺の足を蹴り返してから答えた。「此処に泊まるのがいちばん安全みたいだけど、数珠の結界は張り直したから大丈夫なはずだって、深も言ってたしな」
「結界って、日常生活でこんなに使う言葉じゃなかったはずやのに⋯⋯」
 思わず呟くと、近衛がくすりと笑った。
「仕方ないわ。秘密の教え、と書いて密教、なのでしょう?」
「まあ、そうやけど」
 その後、彼女が食べ終えるまで、ときどき真崎と会話をした。どれも今日の出来事を避けた話題ばかりだったが、近衛はそんな他愛もない会話に時折頷きながら、少しずつおにぎりを食べ進めていった。
 近衛が無事に完食するまで見届けたあと、真崎は一度立ち上がり、錫杖袋を持ってリビングに戻ってきた。夕食まで錫杖の手入れをするとのことだったので、自分は洗い物をするためにキッチンに立つ。
「こんなことになるなら、仕込みのほう持ってきとけば良かった」リビングの床に座って胡座を掻き、錫杖を分解しながら真崎が呟いた。
「仕込みって、中から刀が出てくるほうの錫杖か」キッチンから声をかける。「銃刀法違反で捕まってまうやん」
「今でも充分捕まるけど」真崎はそう言って、自分の足を指さした。
 そういえば、昔、鋏を持っていないかと訊ねると、靴の底から小さな刃物を取り出してきたことを思い出す。真崎は他にも、武器になりそうな小物を足や背中に隠し、常時携帯しているのだ。物騒なこと極まりない。
「久遠くん。私が洗うわ」近衛が俺の傍に駆け寄って言った。
「お前は休んどけ」
「でも⋯⋯」
「食器を洗うのは狭霧の仕事だしな」真崎が少し声を張って言った。
「そうなの?」
「真崎に毎日、飯を作ってもらっとる代わりというか」皿をスポンジで洗いながら答える。「俺は料理できひんから、このくらいは俺がせんとあかんかなって」
「でも、やっぱり、私もなにかお手伝いするわ。貴方たちにしてもらってばかりだもの」
「じゃあ、俺が洗い終わったやつ、拭いて、水屋になおしといて」
「水屋になおす?」
「え? ああ、えっと⋯⋯」
「食器棚にしまっといて、だろ」真崎が少し笑いながら、代わりに答えた。
「方言って、興味深いわ」
「そんなことより、食事に興味を持て」
「興味がないわけではないけれど」一度、そこで言葉が途切れたので、隣に立っている彼女の様子を横目で確認した。僅かに首を傾げている。「どちらかといえば、食事や料理という行為よりも、食事を楽しむ、という心理に興味があるわね」
「どうせ食べなあかんのやったら、美味いほうがええやん」洗い終えた食器の泡を水で流す。「ていうか、一年生の頃に、家庭科の授業で調理実習とかあったやろ。あれ、どうしとったん」
「休みました」彼女は悪びれもなく答えた。
「それって、体育もそうやけど、成績とか内申とかどうするん?」
「私の躰が強くないことは、学校側にも伝わっているわ。だから、出席日数が少々足りていなくても、後日のレポート提出と、定期試験の点数で、それなりの成績はいただけます。もっとも、成績なんてどうでもいいのだけれど」
「でも、進学するにしても就職するにしても、内申はある程度大事やろ」
「そうね」
 彼女の相槌があまりにも乾いた声だったので、俺は会話をそこで止め、濡れたままの皿を一枚手渡した。真っ白な布巾で皿を丁寧に拭いてから、彼女は食器棚に皿を戻す。それを数度繰り返した。フライパンは、収納場所がわからなかったので、水切りラックに伏せて置く。
 水を止めると、途端にリビングが静まり返った。錫杖の輪がぶつかり合う金属音だけが、ときどき幽かに聞こえてくる。
 敬の言葉を思い出して、なんとなく、近くにあった冷蔵庫を開けた。中には幕の内弁当が二つと、唐揚げのパック。ビニル袋に入ったままのサンドイッチ。
「これは何?」
 近衛の声に、冷蔵庫を閉めてそちらを向いた。彼女は、お茶漬けと書かれたインスタントの小袋を手にしている。
「白米に、それと白湯かけて食べるやつ」彼女の隣に立って説明する。
「貴方は好き?」
「え、俺?」もう一度、彼女が持つパッケージを見た。よく見かける、人気の商品だ。「まあ、俺は好きやけど。家でたまに出てきよったお茶漬けより、塩味効いとって美味いし」
「そうなの」彼女はパックの説明書きを読んでいる。
「なんや。興味出てきたんか?」
 近衛は此方に顔を向けると、なぜか一瞬だけ、不思議な反応をした。珍しい表情である。
「貴方、そんな意地悪そうなお顔もできたのね」
「意地悪?」今、眉が寄ったことは自覚できたが、先ほど自分がどんな表情をしていたのかはわからない。
「今は、少し不満そうなお顔」近衛はくすくすと声を溢して笑う。
「意地悪な顔って何?」
「内緒」
「はあ?」
 手にしていた袋を元の場所に戻すと、近衛は背を向けてリビングのほうへ歩いた。それを追いかけながら再度問い詰めるが、なにが可笑しいのか、彼女は、ふふ、と息を溢して笑うだけだ。
「どうした?」真崎が顔を上げる。
「内緒」近衛は同じ言葉を繰り返す。
「こいつ、俺の質問にも全然答えへんし、さっきからずっと笑ってくんねんけど」
「安心したのよ」近衛が言った。「良かった」
「だから、何が?」
 彼女は無言で綺麗に微笑んだ。こうなると、此方はもう、諦めざるを得ない。折れるしかないのだ。
 無力な俺は、溜息を吐くことしかできなかった。