第一章 小暑

 
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 意外にも、その機会はすぐに訪れた。
 屋上。膝に手をついて呼吸を整える間、近衛は後ろ手を組んで、首を少し傾げながら此方の様子を観察している。
 階段を駆け上がっただけで息が上がるとは、随分と躰が鈍ってしまった。真崎に倣って自分もトレーニングを始めようか、と考えながら、じわりと背中が汗ばむのを感じる。対する彼女は、いつ見ても涼しい顔をしていて、汗ひとつかいていないようだった。長い髪は暑そうに思えたが、僅かな風で軽やかに靡く様子は、意外にも悪くない。
「そんなに走らなくても、私は逃げないわ」
 近衛の言葉に返事はせず、大きく息を吐いて、ゆっくりと躰を起こした。彼女の目線が上がる。じっと此方を見据える瞳。嘘も迷いも瞬時に見透かしてしまうのではないか、と思える力強さがあった。
 期末考査が終わり、開放的な気分になった今、教室では文化祭に向けて準備が行われている。この学校では、期末考査の返却後、七月の中旬に文化祭が行われる。一学期の締め行事のような位置づけだ。学年ごとに出し物の種類が決まっていて、最後の年は全クラスが屋台を出すことになっている。自分たちのクラスも、高校生活最後の文化祭ということもあってか熱気が高まっており、その準備にも気合いが入っているようだった。
 昔から、真崎は行事や祭事に意欲的だったが、自分は対照的にこういったものがあまり好きではない。この視界になってからはさらに苦手になった。荷物を運ぶといった力仕事の雑用をこなして形ばかりの参加はしているものの、気乗りはしない。
 そんなときに、彼女を見かけたのだ。
 グラウンドにある倉庫から、段ボール箱を抱えて真崎と並んで歩いていたときだった。グラウンドを横切りながらふと顔を上げると、四階の窓越しに頭が見えた。誰かはすぐに判った。歪まない人間など、恐らくこの世に彼女しかいない。
 その窓は、屋上と四階の間、階段の踊り場にある窓だった。そこに凭れかかるようにして近衛が立っている。どうして今まで一度も見かけなかったのか、やはり疑問に思うほどの遭遇率だ。
 この時間は、どのクラスも文化祭に向けての準備をしているはずである。勿論、五組だか七組だかは知らないが、彼女のクラスも例外ではない。
 しかし、あの場所で準備をしているとも思えなかった。つまり、彼女は今、サボっている。
 今すぐにでも真崎に荷物を渡して階段を駆け上がりたい気持ちを抑えて、教室に運び、そこから真崎を説得して準備を抜け出した。近衛の言う通り、別に走る必要はなかったのだが、そうでもしなければ彼女はすぐに姿を消してしまいそうな気がしたのだ。
「よく、彼が許可したわね」真崎のことだろう。
「その代わり、扉の近くまで来てると思うけど」親指で背後の扉を示す。「こっちの声は、聞こえてない、と思う」
「そう」
「その⋯⋯、体調は、どう」
「貴方、お人好しって言われない?」
 図星だったので少し腹が立った。先日、似たような話を真崎ともしたが、どうにも素直に喜べない分析である。
「大丈夫そう、だな」彼女の問いかけを無視して、話を続けた。「真崎のことは⋯⋯、ちょっと怒らせたかも」
「そこまでして私に会う理由は何?」
「質問したいことがあったから」どうせ判っているのだろうと思ったが、素直に理由を述べることにした。
「その前に、私から一つ宜しい?」近衛は目を閉じて、すぐに開けた。笑みを滲ませた瞳が此方を捉える。「その演技、おやめになった方が貴方も話し易いのではなくて?」
 睫毛の長さに気を取られていて、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。近衛とは数歩分の距離があったが、此処からでも彼女の睫毛が見えたので、案外、自分はまだ視力が良いようだ。いや、そんなことはどうでもいい。
「⋯⋯、演技?」
「ええ」近衛はにこりと微笑んで、顳顬を指で軽く叩いてみせた。
 彼女と同じように手を動かしてみると、眼鏡の蔓に触れた。そういえば、彼女はこれが伊達眼鏡だと見抜いていたことを思い出す。
「眼鏡のこと?」眼鏡を外して、軽く頭を振った。「でも、これは別に⋯⋯」
「違うわ」近衛が手を下ろした。「私は、どうして寡黙な生徒のふりをするのかと訊ねたのよ」
「寡黙って⋯⋯」
「それと、貴方の喋り方」
「え?」
「関西方言のアクセントがときどき混ざっていたわ。たまに、語尾にも関西特有の表現が見受けられたけれど」
 どうすればいいのか。
 何と答えるべきかも判らなかった。
 まさか、この女は、俺や真崎の実家の場所まで知っているのではないか。何とも恐ろしい話だが、彼女の場合、有り得ない話ではない。
 けれど、今更それらを否定し隠し続けたところで、意味はあるだろうか?
 既に彼女は、実家の事情さえ把握している素振りを見せていた。
 何より、誰にも話したことがないはずの秘密さえ、この女は知っていたのだ。
 じりじりと、湿った熱気が肌を這う。
 蝉の鳴き声は遠い。
 少し俯いて、唇を嚙んだ。
「⋯⋯お前、相当気持ち悪いで」
「あら」近衛が器用に片目を細める。「気持ち悪く思わない方がどうかしていてよ」
「自覚あるんか」暑さに耐えきれなくなり、少し手荒にネクタイを緩めた。我慢していたシャツのボタンも一つ外す。「ほんまに、なんちゅうか⋯⋯」
「たちが悪い」
「そう」前髪を掻き上げた。鬱陶しいこと極まりない。「くそ⋯⋯、まじで暑い」
「走るからよ」
「判っとる」
「良かった」
「何が?」眼鏡をシャツの胸ポケットに仕舞いながら、近衛に訊ねた。
「視界の影響で、感情の変化に乏しくなってしまったのだと思っていたから」近衛が答えた。「心配していたの」
「心配って⋯⋯、別に、お前には関係ないやろ」
「そうね」近衛が微笑んだ。「でも、貴方が私の体調を心配なさったことにも、同じことが言えるわ」
「ああ、そう⋯⋯」反論するのも面倒になり、適当に受け流した。会話の主導権がずっと近衛にあるので、自分から質問を切り出すことさえできない苛立ちも大きい。「話、戻してええか」 
「どうぞ」 
「お前に訊くのも、変な話なんやけどさ」 
 近衛は無言で首を傾げている。 
「俺の⋯⋯、この視界は、」唾を飲み込む。いつの間にか乾いていた喉が鳴った。「俺の頭が、おかしなったってことなんか」 
 近衛が、少し目を見開いた。笑っていない。驚いたのかもしれない。自分でも驚いた。なぜ、彼女にこんなことを訊ねたのだろう。もっと他に、訊ねるべきことがあったはずだ。例えば、本当は何組なのか、なぜ此方の事情を知っているのか、進路を白紙で出した理由、俺とコンタクトをとった目的は何か、お前にどんなメリットがあるのか。 
 だというのに、真っ先に口から出てきたのは、ずっと誰にも訊くことができなかった疑念だった。誰にも話すことができなかった苦痛だった。 
 近衛が、此方の顔に手を伸ばそうとした。 
 躰が強張る。 
 それを察したのか、彼女は触れることなくゆっくりとその手を下ろすと、静かに微笑んだ。 
「視覚の失認、或いは脳の認識機能障害ではないかと考えたのね。それは、当然の心配だわ」それは、今まで聞いたどんな声よりも優しい声だった。「心配なさらないで。何を以て正常とするかはそれぞれで異なるけれど、少なくとも、貴方の視界で私は歪まない。貴方にとってその事実がどれほど異常でも、それは別の見方では正常なこと」 
「⋯⋯、原因知っとる、とか?」 
「ごめんなさい」近衛が首を弱く振った。髪が音もなく揺れる。「これ以上は、お話できないの」 
 実質のイエスだ。 
 そう理解した瞬間、一気に力が抜けてしまった。ずるずるとその場にしゃがみこむと、近衛もまた、此方の顔を覗き込むようにして屈む。 
「久遠くん?」 
「なんでなん」両手で顔を覆う。歪む視界。指の隙間から覗く、歪まない人間。生物。何か。「なんで、こんな目になったんや。なんで、俺の、」 
「久遠くん」 
「これのせいで、俺の人生めちゃくちゃになったんやぞ!」 
 叫ぶように言い放ち、顔を上げた。女の顔が一瞬凍りついた気がしたが、それに構っていられるほど冷静ではなかった。 
 ずっと堪えていた不満が、堰を切ったように溢れ出す。 
 一度口にしてしまえば、止めることもできなかった。 
「これのせいで、これに、どんだけ苦しんだと思って、」突然、涙が出そうになった。視界が滲む。また俯いて、額を拳で押さえた。唇を嚙んだ。必死に、堪えた。「意味判らん、何にも、この目も、お前も、俺も⋯⋯」 
 近衛は微動だにしなかった。その様子を見て、ようやく自分の荒い呼吸を自覚した。 
 彼女に向かって吐き出すべきではなかった。まるで、彼女が原因で視界が歪み、自分が苦しむ羽目になったのだと言わんばかりの言葉ではなかったか。 
「⋯⋯、ごめん」顔を上げることもできず、弱々しい声で謝罪する。 
 近衛は黙ったまますぐ傍に手をつくと、両足を揃えて膝をついた。スカートが、屋上のコンクリートの上で円形に広がる。汚れてしまうな、とぼんやり思った。 
「久遠くん」近衛は俺を覗き込むような姿勢のまま、静かに呼びかけた。「私を見て」 
 数秒の沈黙。 
 少しだけ顔を上げた。目を合わせた。 
「全て、私のせいにしていいわ。それで貴方が救われるなら、全て私に押しつけて」 
 まっすぐに俺を見つめる瞳から、目を逸らせない。 
「貴方の苦しみも、不安も、怒りも、全て私にぶつけて。貴方が視界に耐えられなくなったときは、いつでも私を呼びつけて。いくらでも、私を利用して」 
「なんで、そんな⋯⋯」どう考えても、彼女にメリットはない。 
 近衛は一瞬目を伏せた。しかし、すぐにまた目を合わせたかと思うと、彼女は突如微笑んだ。 
「だって、私だけ歪まないなんて、いかにも怪しいでしょ?」 
 わざとらしく明るい声で、近衛が言った。確かに、怪しいか怪しくないかといえばとてつもなく怪しいのだが、この女は、それを自分で言ってのけてしまうのか。そのうえで、自分を身代わりにしろと言わんばかりの言葉を俺に向けるのか。 
 意味が判らない。真意さえ汲み取れない。 
 信じられるはずがない、はずだ。はずだった。なのに、気がつけば自分は、呆れ果てて、少し、ほんの少し、笑っているのを自覚した。 
「貴方、笑えたのね」 
「⋯⋯ちょっと、顔が引き攣るけど」 
「かなり、の間違いよ」 
「やかましわ」掠れた吐息のような笑い声が、自分の口から零れ出た。「何やねん、お前」 
「言ったでしょう。ただの女子高生よ。貴方の秘密を知っているだけのね」 
「それは、ただの女子高生とは言わん」 
「貴方と同じ、人間よ」 
「あんまり、信じられへんな」 
「どうして?」 
 近衛が首を傾げた。自分のすぐ傍に座り込んだままなので、少し幼い仕草に見えた。 
「なんで、って⋯⋯」当然ではないだろうか。この視界の中で最も歪む醜い俺と、一切歪むことのない美しい少女。同じ人間だとは思えないのも無理はない、と思うのだが、それをそのまま彼女に告げるのは少し躊躇われた。「まだ、手放しで信用するのは難しい⋯⋯、やん。お互い」 
 気を悪くしただろうか。恐る恐る表情を窺ったが、彼女はまだ小さく首を傾げたままだった。表情を窺う、というのが随分と久しぶりのことで、そんな当たり前のことをしている自分が酷く懐かしくて、少し可笑しかった。 
 たった数分の会話で、かなり体力を消費した気がする。結局のところ、何ひとつ疑問は解決していないというのにだ。
 思わず、溜息を吐く。 
 近衛は首を戻すと、可愛らしく微笑んだ。