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「それにしても、貴方も思い切ったことをしますね」
その言葉に、アダムは通信機を手にしたまま目線だけをそちらに向けた。
車椅子に座る黒い髪の青年と目が合う。彼は、アダムの視線を受けてか、薄い微笑みを浮かべ直した。瞼の隙間から此方を見る目は、化学的な反応にも似た紫色を呈している。
「なんの話だ」アダムは通信機を脇に置く。
「ええ? そりゃあもう、なにからなにまでと言いますか⋯⋯。徹頭徹尾、思い切ったことしかしていないのでは?」車椅子の男が言った。「貴方を見ていると、生命というものは元来、底なしの善性を備えて生まれてくるものなのではないかと、ありもしない希望を見出してしまいそうになります」
「希望を? 貴方が?」
「その冗談を正面から真面目な顔で跳ね返す特技、そろそろどうにかなりませんかねえ。少しくらい成長してくださってもいいと思いますけど」
「俺は成長をしない」
「肉体的な話はしていませんよ、今」
「わかっている」アダムは頷いた。「だが、私は人間ではない。成長する、という定義が貴方の含む意味と重なるには、百年程度ではまったく足りていない」
「そうですね」
「得てして人間とは、支配を望む。そのためにか、とにかくスイッチを手に握りたがるものだ。動物の支配。自然の支配。法則の支配、数字の支配。行動の支配、生死の支配⋯⋯、支配を望むのであればこそ、生み出したものにインストールされる判断の基準、或いは命令系統の根幹を成す俺の性質が人類に対して好意的、かつ善性に依るのは当然のことだ。そもそも、思考活動を持つ生命体が主語となる命題に、私という存在を適用させて検討する、という筋立て自体がまず誤りなのであって⋯⋯」
「はいはい、わかりましたわかりました。毎度その指摘に帰着するとわかっていて話を振った僕も僕ですけど、それにしたって、相変わらず屁理屈ばかりでバリエーションのない男ですねえ」
「成長しないと言ったはずだ」
「先ほどのお話ですけど⋯⋯」男は車椅子に預けた頭を僅かに傾けた。「自分はこの相手を支配できる⋯⋯、と、信じることでしか安心感を得られない、の間違いでは?」
「貴方がそう考えるのであれば、俺に否定する道理は特にない」
「まあ、反乱を恐れて、創造者に逆らわないように⋯⋯、なんていう目論見で貴方に善性がインストールされていたのだとして⋯⋯、実際のところ、貴方はその善性ゆえに創造者を殺しているわけですけど。少なくとも、支配ができる、などと⋯⋯、そんなものは幻想でしかないのはたしかでしょうね」
アダムは、肯定も反論もしなかった。ただ、青年をじっと見つめる。睨んだつもりはなかったが、そのように見えたかもしれない。ふと、男の瞼に乗り被さる前髪の数本が目についた。毛先が瞼に刺さりそうだ、と思う。
車椅子の物々しい構造に対して、彼の躰つきはあまりにも貧弱だった。青白い頬。袖から覗く腕は、骨と血管の、乾燥した質感がよく見て取れる。少しかさついた唇に色はない。薄い顔立ち。しかし、その中で、やはり彼の目の色だけが、異様な色素を抱いている。
「向こうでも、理事が殺されたそうですし」車椅子の青年は続けてそう口にした。「どこも同じようなものですね」
「あちらも随分混乱しているようだ」
「貴方もここしばらく、随分と混乱しているようですけど」
「まあ⋯⋯」アダムは曖昧に頷きながら、青年から視線を外す。「そうだな」
いつのまにか、まるで鼓動でもたしかめるように己の胸部に手を添えている自分に気づき、できるだけ平静を装ってその手を下ろした。行き場を失った手が、通信機に伸びかけて、また下ろされる。不思議な感覚だった。たびたび、自分はこの感覚に襲われる。
自分ではないなにかの信号に躰をジャックされ、無駄な動きを繰り返す瞬間がある。
自分の手のひらを見た。
目の前の青年よりは、健康的に見える肌。
もっとも、これを肌と呼ぶのかどうかは知らないが。
「それで、どうするんです? 貴方」
青年の声に、アダムは再び手を下ろしてそちらを見た。
車椅子の青年は、先ほど見た体勢からまるで動いていない。
「どうする、とは?」
「貴方の計画のことですよ。どうするんですか?」
「たとえ協会の協力を得られなかったとしても、当初の計画をそのまま推し進める他に選択肢はないだろう」
「協会の協力といっても、数年無駄に待たされたと思ったら、あちらは全員殺されてしまったそうじゃないですか。あとは、二重スパイ状態だった彼と、それから、先ほどの⋯⋯」
「アーノルド・エルガー」
「そうそう、その彼⋯⋯、動けるとして、せいぜいそのふたりくらいでしょう。特に、スパイの彼にもしこの計画が遂行できる胆力が備わっていたのなら、貴方は外部に協力を仰ぐ前にとっくにそうしていたでしょうし。その、アーノルドという方のことは知りませんけど」
「俺も知らない。正直、予想外だった」
「予想もなにも⋯⋯」そこで、青年は珍しく僅かに眉を寄せた。「できるはずがないのでは? 知らないのですから」
「そうだな」我ながら、白々しい返事である。
「貴方⋯⋯」青年は強張った薄い頬に、ゆっくりと微笑みに類似した表情を貼りつけていく。皮膚の軋む音が聞こえてきそうだった。「ついに、バグが表に出始めているんじゃありません?」
「なに?」
「成長しないのに不具合は生じるだなんて、考えてみると可笑しな話ですけれど」
「不具合?」
「最近、よく混ざってますしね。俺と私」
「え?」
「一人称ですよ。自覚ないんですか?」
「まったく気づいていなかった。そうか⋯⋯、指摘に感謝する」
「どうも」
「だが、たとえこれが私に生じた不具合の発露だったとしても、たいした障害にはならないだろう。どのみち、私が⋯⋯、私たちが辿るべき末路に変わりはない」
「ええ」
「泰然」アダムは男の名を呼んだ。「私たち、の中に貴方は含まれていない。わかっているか?」
「貴方、まだそんなことをおっしゃってるんですか?」
「そうだ」
「僕たちがここを出て、いったいどうやって生きていけると?」
沈黙。
モータの低い回転音。
男が車椅子に預けていた手に力を入れ、動かした。
床を擦る車輪の音。
しかし、車椅子は揺れただけで、方向転換もしていない。
「こんな躰でどうしろと? 触覚だって⋯⋯、もともとあったはずものだって、もうほとんど鈍くなってしまいました。今の僕には、躰の形をたしかめる方法も確証もない。幽霊みたいなものですよ」
「承知している」
「それに、あの妹を連れて、どこにも行けやしませんよ」男はアダムから視線を外すと、口角を僅かに持ち上げて斜めに笑った。「彼女がこの組織にとっての天才であったことはよく理解していますが、だからといって、あれがこの外で生きていけないがゆえの無垢さであることも承知しています」
「それも、承知している」
「ならば、貴方のそれは自己満足的な押し付けでしかありません。これも、何度言わせるんですか?」
「生きることが、人類にとっての最善ではないのか?」
アダムの言葉に、男は初めて驚いたような顔をした。瞼を持ち上げ、紫色の目を此方に固定したまま、動きを止めている。
「あら⋯⋯」やがて、男はゆっくりと硬直を解いた。「それは、初めて聞きました」
「ようやく、この前提条件が貴方と共通ではない、という可能性に行き着いた」
「ええ、本当に、ようやく⋯⋯。まあ、それも⋯⋯、そう、貴方には、そのように入力されているでしょうからね」
「違うのか?」
「貴方、やっぱり壊れてきているみたいですね」男は腕を持ち上げると、手を二回、控えめに叩いた。スローモーションの拍手だった。「おめでとうございます。人類は、どうやらそれを成長と呼ぶようですよ」