5
アーノルドは瞼を持ち上げた。
視界には、謎の通信機を握る自分の手。今日、ヒューゴーの手によって自分のもとに辿り着いた、理事の遺品。
ヒューゴー・ダルシアク。
間違いなく、手放しで信じて良い相手ではない。しかしそれは、アーノルドたちの目の前で五人の人間をいとも容易く惨殺したためでも、家族をはじめ多くの人間を殺した過去を当然のように口にしてみせる神経の持ち主であるためでもない。
どうしても、否が応でも認めざるを得ない男の性質が、アーノルドにはひとつだけあった。
それが、男にとっての妹という存在だった。
結局のところあの男は、妹さえ良ければそれでいいのだ。妹のためならばあの男は簡単にアーノルドを裏切るだろう。もしもアーノルドという存在がなんらかの障害になると判断すれば、即座にアーノルドを切り捨てて妹を選ぶ。そう確信できるほど、男の言動はすべて、妹という軸によって決定されている。
だが、そのあまりにも明確すぎる基準ゆえに、ある種信用ができるのもまた事実だ。
今回の件だってそうだ。ヒューゴーは、クロエ・ダルシアクがエルの前に現れることを許容した。この時点で、たとえばヒューゴーがエルをあえて見殺しにしたり、積極的に此方に危害を加えてくる可能性は極めて低くなったと言える。少なくとも、クロエにダメージを与える選択を良しとはしない男だ。彼女をエルと顔見知りにする、という選択をした時点で、此方を早々に切り捨てる予定ではない、はず。
鼓動が速まる。
指先にまで大きく伝わる脈動。
通信機を握り締めた。
レバーがあった。人差し指をかけ、音をたてないように押し上げる。
目に見える変化はない。
そのまま、魔力を流してみた。
通信機の側面や底を少し観察する。
『どうした。連絡がなかったが』
男の声だった。
咄嗟に通信機を顔から遠ざける。
心臓が、妙な拍動をした。
どこから聞こえてきた?
少し遠い声だった。くぐもっている。
『なにか問題が発生したのか?』上のベルから、男の声が聞こえた。『どうした?』
そのベルを、耳に押し当てる。
手に、揺れるような緊張が伝播している。
「失礼する」アーノルドは口もとのベルに向かって話した。「訳あって、この通信機を預かった者だ。此方の声が聞こえるか?」
『聞こえている。問題ない』男が答える。『しかし、預かった、というのは⋯⋯』
「誰だ?」アーノルドは単刀直入に訊ねた。
『貴殿こそ、どちらだろうか』男は理性的なトーンのまま、アーノルドの問いかけにそう返してきた。『貴殿が何者か、それを明かしていただくのが先だと認識している』
「この持ち主なら全員死んだ」
『なに?』男の声が大きくなる。『死んだ? なぜ?』
「俺は、持ち主の⋯⋯、協力者のようなものだ」
『ヒューゴー・ダルシアクではないのか?』
「は?」
予期していなかった男の名前が、まったく知らない男の口から飛び出したことで、一瞬、アーノルドの思考は見事に停止した。
また、ヒューゴーだ。
ここでも、あの男が大きく関わっている。
「いや⋯⋯、違う」アーノルドはひとり、頭を小さく横に振った。「大体、そいつはこの持ち主を殺した張本人だ」
『殺した?』
「なんでアイツを知ってる?」
『ちょっと待て⋯⋯』男が呟いた。『どうなっている?』
「お前は誰だ。何者だ?」
『私は⋯⋯』雑音。それから、一拍の沈黙。『私は、組織の者だ。こう言えば、おわかりいただけるだろうか』
組織の者。
通信機を握る手に力が入る。
なぜだ?
なぜ、組織の人間が?
では⋯⋯、
やはり、エントランスに爆弾を投げ込んだという自動人形も、組織によるものなのか?
たしかに、爆弾で妹を巻き込めば組織にはメリットがある。しかしそれは、エルがイヴを殺す切り札になった、と組織が既に把握している場合の話だ。それは考えにくい。たとえ、協会に組織のスパイがいたとしても⋯⋯、
スパイ?
待てよ⋯⋯、
では、組織の中に、理事と繋がっているスパイがいたとしたら?
それが、この男だったとしたら?
「この持ち主は、組織の制裁を望んでいたはずだ」アーノルドは慎重に確認する。
『私も、それを望んでいる』男の返答は淀みない。『この組織は葬られなければならない、と考えている。そのために数年をかけ、そちらの理事に協力を要請していた』
目を閉じる。
男は、この通信機の持ち主を理事だと断言した。
それだけでは弱い。
それでも⋯⋯、
直感する。
根拠はない。
だが、同じだ。
この男は、ヒューゴー・ダルシアクと同じ。
よく似た性質。
同じ、制約。
息を吸う。
「アーノルド・エルガーだ」そう名乗ったとき、鼓動がさらに加速し、息が震えた。それを抑えつけるように、大きく息を吸い込む。「理事から⋯⋯、組織の制裁のために協力を要請されたが、詳細を聞く前に理事が殺された。全員が死んでしまった今、俺はほとんど事情を把握できていない。この通信機は、理事の遺品から回収したものだ」
『そうか⋯⋯』男が静かに零した。『承知した。たしかに理事からは、此方の依頼した計画を受けていただくにあたり、協力者を準備する必要があるとの連絡を受けていた。それが貴殿だということか?』
「どういう計画だ?」
『組織の代表者の殺害と、施設の破壊、それから、イヴの処分だ。代表者の殺害については此方でおこなう。それが整い次第、理事と協力者には此方に赴いていただき、イヴの処分、そして、後処理を依頼したいと考えている。非常に身勝手な依頼だが、そのように理事とは話がついていた。そこで⋯⋯』
「ちょっと待ってくれ」男の言葉を遮る。「なんで俺たちに手を貸す? 大体、どうやって理事なんかと⋯⋯」
『そうすべきだからだ。それ以外に理由はない』男が即答する。『いずれ人類が手をかけるステージには違いない。だが、しかし、この道筋ではない。これが導くものは、技術の飛躍ではなく単なる戦場と犠牲だ。ゆえに、この技術を残すべきではない。この理念を継承すべきではない。そのように考えている』
「そのために、理事を使って呪いをかけさせたのか?」
室内の静寂が、突如、耳につく。
自分の吐く息が、やけに近い。
『呪い?』男が問い返した。『申し訳ないが⋯⋯、私は把握していない』
「イヴを殺したいんだろ?」
『それは⋯⋯、たしかに、間違いではない。処分が必要だと考えている。しかし、彼女の処分やその他にもいくつか⋯⋯、私のように、内部の、制約の多い立場からではできることもかぎられてくる。そのために協力を依頼した。もちろん、此方からも提供できるものを用意している。我々組織に加担している人間が、そちらの協会に潜んでいる。その炙り出しに私が協力することになっていた』
「協会に?」
『我々に資金援助をしている家がいくつかある。それは、そちらとしても見過ごせない話だろう』
「そうか⋯⋯」アーノルドは軽く唇を嚙む。
だから理事は、組織の情報を詳細に把握していながら、協会内に共有しなかったのか。
いや、できなかったのだ。
『互いに、メリットのある契約であるべきだ』男が言った。
「とりあえず⋯⋯、理解はした。それで? そちらの要望は?」
『理事亡き今、計画どおりに事を運ぶこともまた難しくなった。考え直す必要があるだろう。その上、貴殿にとってはなにひとつメリットのない要求となる。だが、貴殿の協力を得られるのであれば、此方としてはたいへん喜ばしい。私の言葉を信用できないのももっともだが、しかし、あまり時間がないのも事実だ』
「少し⋯⋯、考えさせてくれ」
『かまわないが、そう多くの時間は取れない』
「それより、組織の研究内容ってのは⋯⋯、本当のことなのか?」アーノルドは少し俯いたまま、デスクの天板をじっと見つめている。「人間の手で、人間を作る⋯⋯、人工生命体が、既に完成してるってのは⋯⋯」
『私が、その人工生命体と呼ばれるものだ』
「え?」
『アダムという』男が答える。ひどく、冷静な告白だった。『それが、私だ』