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アーノルドは、自分の口が開いていることを、数秒後にようやく自覚した。
妹。妹。妹。
目の前の男から繰り返されるその言葉。
学生の頃からずっと、男の口から幾度となく聞いてきた言葉だ。しかし今は、アーノルドが知る妹という存在とはまったく別物の、未知の概念を指す言葉のように思えてならなかった。
男にとっての妹が誰かは知っている。先ほど、紅茶の入ったカップを用意した少女だ。学生の頃は、ずっとヒューゴーに抱えられていた小さな少女。
当時、とても十一歳には見えない少女だった。実はヒューゴーが抱えているのはよくできた人形ではないか、という連想をしてしまうほどだった。なによりも、彼女の静止した無表情がその疑いを助長した。けれど、兄にしがみつく彼女の手の微かな震えが、唯一、人形ではないことを示していた。
幼く、躰の小さな少女。
明らかに外界に反応していない視線。
しかし、彼女の手は怯えるように兄にしがみついている。
事情があることは明白だった。
それでも。
そうだとしても。
「そんなに、大事か?」
気がつけば、アーノルドの口からは、そんな、剥き出しの問いかけが零れ落ちていた。
ヒューゴーの顔には、いつからか笑みはない。
表情はない。
今までの笑い声も、表情や仕草のすべてが、まるで演じられていたかのように。
否⋯⋯、
実際に、そうなのかもしれない。
直感する。
理由はない。
ただ、そのように感じただけだ。
「不適当な問いだ」起伏のない、ひどく平坦な声だった。「そのように俺は在る。その在り方を、俺が選んだ。これが定義だ。そこに、仮定も疑問も生じる余地などありはしない」
理解できなかった。
なにが、この男をそこまで突き動かしている?
わからない。
ヒューゴーは静止している。呼吸をしているのかも怪しかった。
温度のない明るい青色の目が此方に向けられている。
では、
妹に向けていた目は?
軟らかく微笑みながら、彼女を見ていたではないか。手招きをして、頬を寄せ、笑みを向けていた。ずっとそうだった。ずっと、男は妹に笑みを向けていた⋯⋯。
突如、ぞっとするような仮説が湧き上がる。
まさか⋯⋯、
あれも、演じていたのだろうか?
そのように振る舞う、彼女の兄として?
「いいのか、お前は、それで⋯⋯」
【やめときな、坊ちゃん】悪魔がアーノルドの背後から口を挟んだ。【それ以上は不毛ってモンだぜ】
「それは⋯⋯」憂鬱な感情が重さを増す。「そうかも、しれんが⋯⋯」
【まあ気にすんなって、コイツな、相当な変人だろ。この変人具合がこれまたジョフロアそっくりでよ、始祖の先祖返りかってくらいよく似てるっつうか、なんだってこんな見た目も中身もそのまんまなんだってレベルで⋯⋯、なんせちょっと頭おかしいんだ。だからあんま深く考えんなよ、な?】
悪魔の辛辣な評価に対し、ヒューゴー本人は鼻を鳴らすにとどまった。腕を組んだまま目を閉じてはいるが、悪魔による明け透けで投げやりなその言葉を、彼は否定も肯定もしなかった。
アーノルドはゆっくりと肩の力を抜く。
どちらかといえば、悪魔が自分に気を遣っている、という現状に力が抜けたのかもしれない。
「始祖って⋯⋯、ジョフロアもこんな感じだったのか」
【おー、もうそっくりこのまんま。髪はあっちのほうが随分長かったが⋯⋯、あ、いやでもそうだな⋯⋯、ジョフロアのほうが人間の振りすんのは上手かったかな】
「人間の振り?」
「随分とジョフロアに興味があるようだ」ヒューゴーが言った。目を開けて此方を見ている。既に、よく知った彼の声音に戻っていた。
「興味があるっつうか、そりゃあ⋯⋯、誰だって気になるだろ。悪魔喚起の始祖だぞ、始祖。しかも、偉人の直筆が残ってるって聞いたら、そりゃとりあえず見てみたくはなるっつうか⋯⋯」
「歴史という観点で言えばジョフロアは圧倒的に新しい。新参者と言って差し支えない。たいした価値があるとも思えんが」
「いちばん新しいからいまだに唯一直系が残ってて、そんな価値のあるモンまで残ってんだろうが」
【見るのは全然構わねえけどさ、ほんとにたいしたもんじゃないぜ。ただのラブレターだし】
「ラブレター?」うしろを振り返る。「え?」
【そ、妹に向けたお手紙ってわけ⋯⋯】悪魔が大きな口をにんまりと歪める。【言ったろ? 髪が長かっただけで、あとは大体ヒューゴーだってよ】
「へえ⋯⋯、あ、そう⋯⋯」
【あ、でも直筆なのはほんとだぜ。後世のために言葉なんて残すような奴じゃなかったから、貴重なのはたしかだろうさ】
「あとで好きに見れば良い。捨ててはいない」
「やっぱさ、人間性テストにかけられるべきはお前のほうなんじゃねえの?」
「合格したからこそ、お前はのこのこと我が家までついてきたものと理解しているが」
「どっから出てくるんだよ、その自信はよ⋯⋯」
「お前が興味を持ちそうなものは、たしかにいくつかある。好きに見ろ。此方としては、べつにいつでもかまわんが」
「え?」
「ん?」男が目を瞬かせる。「どうした」
「あ、いや⋯⋯」アーノルドは頭を弱く振った。「珍しいなと思っただけだ。わざわざそんなこと言うなんて⋯⋯」
「珍しい?」
「ほんとにいいのか?」
「俺の言葉を疑うことほど無駄な時間はないぞ。ミスタ」
【そもそも、俺たちがいたんじゃ嘘ついたって仕方ねえしな】悪魔がアーノルドに話しかける。【どうせ全部バレるのに、嘘つき続ける必要がどこにあるよ。早々にアホくさくなってやめるだろ。はっきり言って労力の無駄だし。こんな環境じゃ、そういう考えがそもそもなくなるってモンだ】
では、嘘と演技は別物だろうか。ふとそんな疑問が浮かんだが、口に出すことは憚られた。
【嘘の定義にもよるよな】悪魔は当然のようにアーノルドに返事をした。
ヒューゴーが無言で肩を竦める。今の悪魔の言葉で、此方の思考をおおよそ把握したのだろう。
屋敷の中は、途端に音を失った。
静かだ。
窓の外では、黒い森が風に吹かれている。
この屋敷に来てからずっと、アーノルドには気になっていることがひとつあった。だが、それを訊ねるつもりはなかった。確認するつもりもなかった。
けれど⋯⋯、
今アーノルドが抱えている違和感も疑問も、きっと悪魔には筒抜けなのだろう。
ならば、自分の口から訊ねたほうが、幾許か誠実だ。
「なあ」アーノルドは両手の指を組み、少しきつく握り締めた。「あのさ⋯⋯」
「なんだ」
「今から訊くこと、怒るなよ」
「どうだ?」ヒューゴーは悪魔に訊ねた。
【べつに】
「では、約束しよう」
「他の人間はどうした?」
「他の人間、とは?」ヒューゴーが訊ねる。
「こんなだだっ広い屋敷で、メイドもいない、使用人もいない⋯⋯」顔を傾け、窓のほうを見る。大きく波打った黒いシルエットから、鳥が一斉に飛び立つのが見えた。「お前も言ってたよな、さっき。この家に人間はお前と妹のふたりしかいないって」
「そうだ」
「前の⋯⋯、お前、父親だけじゃねえのか?」
「まず、あの男は父ではない。血も繋がっていなければ、そも、顔を合わせたのも一度きりだ」
「いくらなんでもおかしいだろ」
「血が繋がっていないことがか? それとも、顔を合わせたことがない、という俺の発言がか?」
「使用人もいなけりゃ、お前の母親も⋯⋯、家族も。誰ひとりいない、なんてよ」
「もとより、俺の家族は妹だけだ」そして、ヒューゴーはアーノルドの質問にこう答えた。「この屋敷にいた他の人間ならば、とっくの昔に全員殺した」