第三章

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 よ、とフレンドリーに大きな手のひらを見せた男の姿に、アーノルドは数秒の間、意味もなく口を開閉することしかできなかった。
【おーおー、久しぶりだな、この感じ】男が一言発するたびに、脳が熱を発するように痺れた。【いいねえ。ビビられてるって感じ】
「ま、まさか⋯⋯」ヒューゴーのほうへ向き直る。
「悪魔だ」彼はにんまりと笑った。「一度、見てみたいかと思ってな」
【つかよ、さっきヨルゴスにも会ってたじゃねえか。驚くってんならそっちが先だろ?】
「発声を擬態していたからな。ミスタのために配慮したのだろう。お前とは違って」
「ヨルゴス?」アーノルドは訊ねる。
「そこの執事だ」
 ヒューゴーの目線を追う。そこには、先ほどアーノルドたちをここまで先導した執事がひとり。
 目が合うと、彼は頭を下げた。
「悪魔?」
「そうだ。そも、この屋敷に人間は俺と妹しかおらん」
 応接室の扉が控えめにノックされた。ヨルゴスと呼ばれた執事が扉を開けると、ティーセットを載せたワゴンを押しながら、ひとりの少女が現れた。
 少女はローテーブルの傍でワゴンをゆっくり停めると、慎重な手つきでカップを持ち上げてテーブルに移動させていく。黒い革手袋に包まれた小さな手では、少し持ちにくそうだった。
 カップがたてる音だけが空気を小さく揺らす中、立ち上がったままだったアーノルドはとりあえず、もう一度ソファに座り直した。向かい側では、ヒューゴーが彼女を見守るように眺めている。少なくとも、いつもの意地の悪い口角の持ち上がり方ではない。
 自分たちの前に、紅茶が用意された。
「クロエ」準備が終わったタイミングで、ヒューゴーが素早く彼女を手招きする。
 彼女が傍までやってくると、ヒューゴーはソファに座ったままで妹に顔を寄せ、彼女と頬を触れ合わせた。その後、小声でなにかを喋りかけていたが、自国の言葉を使っているのか、なにを言っているかまでは聞き取れない。
 こうして並ぶと、既に青年として成熟しきったヒューゴー・ダルシアクと比べて、やはりクロエはひどく幼く見える。だが、珍しい銀髪や美しさを予感させる横顔は、たしかにヒューゴーとよく似ていた。
 アーノルドがこの兄妹と出会ったのは、三年ほど前。協会が運営するボーディングスクールでのことだった。
 アーノルドは規定どおり十一歳から通っていたが、彼らがスクールに在籍していたのはアーノルドが十六歳の頃の一年間だけだった。しかも、一年間のうち、実際に姿を見せていたのは数えられる程度の日数である。曰く、一度でも通ったという事実さえ手に入れば良かったらしい。
 当時十一歳だったクロエは、いつも兄のヒューゴーといっしょにいた。十一歳にしてはどう見ても小柄で、しかも、講義が始まってからも彼女はずっと兄にしがみついたままだった。アーノルドはしばらくの間、彼女もまた入学している生徒であることを知らなかったほどだ。
 常に躰を微かに震わせながら、兄に必死にしがみつく小さな姿が強く印象に残っている。そのためか、今こうしてひとりで現れたばかりか紅茶を出す、という彼女の成長ぶりに、アーノルドは正直なところ、感動に似た驚きを覚えていた。
「クロエ。アーノルドだ」ヒューゴーが言った。次はアーノルドにもわかる言葉だった。
「久しぶりだな」声をかける。
 クロエはアーノルドに向かって控えめに礼をしたが、口を開くことはなかった。伏し目がちに、結局そのまま応接室を出ていってしまった。
 扉が閉まる。
 ヒューゴーがカップを持ち上げ、香りをたしかめながら口をつけた。
 アーノルドも、紅茶を一口飲む。
「お前さ⋯⋯」カップをテーブルに一度戻した。「妹に給仕させてんのかよ」
「彼女が望み、すすんでおこなっている」
「なんだってまたそんなこと⋯⋯」
【単に兄貴に紅茶を淹れたいってだけだろ?】アーノルドのうしろから悪魔が言った。【メイドの真似ごとがしたいっつうよりはさ】
「ふぅん⋯⋯」応接室の扉を見る。「だいぶ大きくなったな」
「この年頃の三年は変化も大きい」
「つうことは、今、十四?」
「そうだが」
「へえ⋯⋯」
「それがどうした」ヒューゴーが僅かに眉を寄せる。
「いや、べつに。ただ、なんか⋯⋯」
「なんだ」
「なんか、俺にもいるらしくてよ。妹」
「もとよりお前には妹がいたと記憶しているが。七つ下だろう」
「そうなんだけど、なんつうか、うーん⋯⋯、事実としてはそりゃわかってんだけど、家に戻ったら本当に妹がいて、うわ、本当にいたんだ、みたいな⋯⋯」
 ヒューゴーが鼻で笑った。喋りすぎた、と自覚したがもう遅い。
「悪いかよ」顔を顰める。
「実際に自分の妹を目にして、初めてその存在を実感した、という意味か?」
「え? ああ、うーん⋯⋯、まあ⋯⋯」
「ならば、理解はできる」ヒューゴーはもう一口紅茶を飲んだ。「事実として知っていることと、実際に体験を伴うことの差異は、完全には無視できない」
「そんな大層な話だったか? これ」
【なあ、お前さん⋯⋯】うしろから悪魔が身を乗り出した。【まさか、ほんとにコイツとオトモダチなわけ?】
「お、お友達って⋯⋯」アーノルドは眉を寄せて悪魔のほうを振り返る。「やめてくれ。ぞっとする」
【だってよ、普通は避けるだろ。こんなどう見たってヤバい奴】
「アンタもそういう認識なのか」
【事実だろ?】
「まあそうだけど⋯⋯」肘を置き、横を向いて頬杖をつく。「つか、こっちだって避けられるものなら避けてえよ。だけどどうやって避けろってんだ、この男をよ。災害が俺めがけて向こうから飛んでくるんだぞ」
「この俺を災害と呼ぶか、貴様」
「事実だろうが」
【目をつけられたのが運の尽きってか?】
「それもあるが、大体コイツ、俺で遊んでるのが丸わかりだったからな。明らかに手ェ抜いてたし。それが、普通に腹が立つっていうか⋯⋯」
【おうおう】
「そしたら、なんかこう、ずるずると⋯⋯」
【ずるずるとね】悪魔が笑う。
「単純に、遊ばれてんのが腹立つ」
【そりゃまた⋯⋯】
「此方の思惑としては、ある種の成功だったというわけだ」ヒューゴーが言った。
「思惑?」
「お前を金卿に、と推薦した理由にも繋がる話だが⋯⋯」カップを置く。「お前に接触した、そもそもの理由だ」
「へえ。理由あったんかよ」
「この目でたしかめておくべきかと思ってな」ヒューゴーが目を細めた。「スクールで偶然目にしてしまった貴様という脅威の種を、今のうちに潰しておくべきか、支配下に置いておくべきか⋯⋯。それを、見極める必要があった」
「脅威って⋯⋯」
「当然、お前のことだ」
 ヒューゴーが指を鳴らす。
 彼の指先に、青い炎が点いた。
「火を灯した蝋燭を一本用意できれば、この惑星の大半を容易く破壊するだけの爆弾を抱える者。極めて少量のエネルギィ消費で、最大の結果を打ち出す存在。それは、充分に脅威と言えよう」
「惑星半壊って、俺が?」
「そうだ」
「まさか⋯⋯」アーノルドは素早く溜息をついた。「無理に決まってんだろ。できてせいぜい島一個だ」
「語るに落ちたな」ヒューゴーが可笑しそうに笑った。