第三章

     1

 五年前。
 アーノルド・エルガーはひとり、大股で協会本部の廊下を歩いていた。
 直線的な廊下がずっと奥まで続いている。人気ひとけはない。不自然なほど誰ともすれ違わないまま、アーノルドの硬い靴音だけが高いアーチ型の天井に発散し、仄暗さに変換され、やがて消滅していく。
 蝋燭の光が揺らめきながら床や壁の一部分を艶やかに照らし出しているが、そのどこにも、特徴的なシンボルや絵画といったものは見当たらない。ほとんどが歴史的な沈黙の中に沈んだこの空間だけでは、ここがいったいなんのための建物なのかを判断するのは難しいだろう。
 長い廊下が終わりを迎えつつあった。廊下の突き当たりに、扉が見える。
 速度を落とさずに歩を進め、突き当たりの扉に手をかける。重い扉を開いて室内に足を踏み入れた。有色者会の会議室だというこの場所もまた、緻密な立体感を高級感でコーティングした壁や天井の面に対し、奇妙なほど徹底的に連想を排除された空間だった。生活感のない、廃墟に近い空気感。それが、この部屋を空虚に満たしている。
 中央に大きな円形のテーブルがあった。そのテーブルを取り囲むようにして椅子が等間隔に並んでいる。そのうちのひとつに、悠々と腰かけて目を閉じている青年の姿を認めたアーノルドは迷わずそちらに靴先を向けた。
 男の隣に立つ。座っている銀髪の男が目を開けたのと、アーノルドがテーブルに勢いよく手をついたのは同時だった。
「どういうつもりだ、てめえ」
「なにに対して訊ねているのかが不明確だ」銀髪の青年の口もとは笑っていた。
「よくも俺の名前を出しやがったな」アーノルドは睨みつける。「ヒューゴー・ジョフロア=サン=ティレーヌ・ダルシアク」
「随分とお怒りのご様子だが、生憎⋯⋯」ヒューゴーは足を組むと、腕を組んだままアーノルドを目だけで見上げた。礼服に身を包んでいる。初めて見る恰好だった。「それはフルネームではない。どうせ呼ぶのならば、ヒューゴー・ジャン=シャルル・ピエール・ド・リュンヌ・ジョフロア=サン=ティレーヌ・ダルシアクと正確に⋯⋯」
「ちょ、ちょっと待てお前、」アーノルドは思わず小声になった。「お前、なに堂々とフルネーム名乗ってんだ馬鹿!」
「先に言い出したのは貴様のほうだが?」
「てめえがジョフロアの子孫だって知ってりゃ誰でも知ってる名前だろ!」
「どうせ大した意味のない名だ。問題はない」
「意味の話なんかしてねえよ。全部バラすのが問題なんだろうが」
「大した問題にはならない、と言っている」ヒューゴーは片方の眉を持ち上げる。機嫌の良い反応だった。「挨拶は以上か?」
「ざっけんな、これからに決まってんだろ」そう言って、アーノルドはヒューゴーの鼻先に指先を突きつけた。「こちとらな、てめえに名前を知られちまったのが運の尽きだったんだ。だからって、よりにもよって、俺を色位に推薦するとは思わなかったがな!」
「俺が貴様の名を挙げたとは限らんだろう。方々から目をつけられていたのやもしれぬ」
「スクール出たばっかのガキの名前を、色位の中でお前以外の誰が把握してるってんだ」
 アーノルドの言葉に、ヒューゴーは口角を上げただけでなにも答えなかったが、代わりに顎を持ち上げて扉を示した。数秒後、扉が開き、初老の男性が現れる。アーノルドは仕方なくテーブルから手を離して姿勢を正し、ヒューゴーから距離を取った。
 やがて、次々と数人の男が会議室にやってきた。多くは老人で、それぞれが着席する。最後には、アーノルドだけが空いた一席の隣に立っていた。
 形式的な会議が開始されると、まずはアーノルドに対し、金の色位の授与について拍手で信任決議がおこなわれた。これも、形式的なものだった。既に協会本部での決議を終え、承認も済んでいる。賛成多数、との宣言によって、アーノルドはようやく椅子に腰かけることができた。
 その後、いくつか報告がおこなわれたものの、どれも「公に確認した」という事実を得るためだけの作業のようだった。報告内容もいたって平和的で、引き延ばされた薄い内容である。
 たったこれだけのために時間をかけて準備がおこなわれ、協会本部にわざわざ色位が集まったのか、と拍子抜けするほど、有色者会議はすぐに解散となった。
「わかっただろう」ほとんどの人間が場を離れた頃、ヒューゴーがアーノルドに言った。「驚くほど誰にでもできる役目だ」
「なんの弁明にもなってねえっつうの」姿勢を崩して頬杖をつく。「んで? これ、もう本当にあとは帰っていいのか?」
「我が家に招待しよう」
「え?」頬杖から顔を浮かし、ヒューゴーのほうを見る。男はちょうど立ち上がっていたところだった。「いや⋯⋯、なんで?」
「お前を次代の金卿に、と推薦したのは事実ゆえな。弁明が欲しいと言うのならば仕方ない。それに、久しぶりの再会だ。お前とて、たったこの十分そこそこの中身のない会議のためだけに何日もかけてここに来た、というのも癪だろう」
「そりゃそうかもしれんが⋯⋯」
「お前のことだ。ひとりで来たのだろう?」
「わかったわかった。行くって⋯⋯」椅子から立ち上がる。どのみち、抵抗してみせたところで碌なことにはならない。「帰りはちゃんと送ってくれるんだろうな」
「無論」男はにんまりと笑った。「一秒で送り届けてやるとも」
 ヒューゴーが虚空に向かって誰かの名前を呼んだかと思えば、次の瞬間には躰が大きな渦の中に投じられていた。なにかに掴まろうとしたが、それよりも先に平衡感覚が失われていく。
 足が地面についた。硬い床だ。
 目を開ける。
 しかし、周囲の状況よりも先に、吐き気ばかりを認識している。
「おっと。酔わせてしまったか」隣でヒューゴーが軽く笑ったのが聞こえた。
「せめて心の準備くらいさせろよ」アーノルドは必死に唾を飲み込む。「最悪」
「こればかりは慣れるしかないのでな」
 既にここは男の家の中らしい。吹き抜けのエントランスホールのようだ。寒々しい広さのエントランスホールには、置物のように老齢の執事がひとりだけ立っている。
「ようこそいらっしゃいました」執事が滑らかに頭を下げる。
「ミスタ・ゴールドだ」ヒューゴーはアーノルドを示し、執事に紹介した。声の端々から笑いが滲み出ている。
「アーノルド・エルガーだ」自分の名を名乗る。「突然の訪問で申し訳ない」
「お初にお目にかかります、卿。いえ、まったく問題ございません。この度の輝かしいご受位⋯⋯、心よりお喜び申し上げます」
「ああ⋯⋯」アーノルドは曖昧に頷く。
「クロエはどうした?」ヒューゴーが執事に訊ねる。
「ただいま紅茶のご準備を」
「そうか」
「金卿、どうぞ此方へ⋯⋯」執事がアーノルドを促した。
 ヒューゴーと執事のうしろについて歩き、応接室に案内される。ヒューゴーはひとりがけ用のソファに早々に腰を下ろすと、素早く顎を持ち上げて目の前のソファを示した。アーノルドもそれに従ってソファに腰かける。それから、室内に目を滑らせた。
 男の屋敷の応接室は、必要な家具を配置した、という印象の、整然とした比較的コンパクトな部屋だった。雨天の昼間のように少々薄暗い。清潔に保たれてはいるが、明らかに長らく使用されていない空間であることが肌に触れる空気から伝わってくる。
 大きな窓の向こう側には、暗く深い森の黒が広がっている。
「お前の家ってことは⋯⋯」ほとんどひとりごとのつもりで呟いた。「じゃあ、ここって始祖の生家か」
「そうなるな」ヒューゴーが足を組む。
「それにしちゃあんまり物とか置いてねえんだな。もっといろいろ飾ってあるとか、ほら、置いてありそうなもんだが」
「あるにはあるがガラクタばかりだ。そう珍しいものなど⋯⋯」肘置きに頬杖をつくと、ふと、ヒューゴーは斜め上を見上げた。「ああ。そういえば、始祖の直筆が残っていたか」
「は?」アーノルドは思わず立ち上がった。「直筆?」
「ただの紙切れだがな」
「紙切れって、でもそれ、ジョフロアの直筆ってことだろ? まさか⋯⋯、直筆残してるなんて話、聞いたことないぞ」
【そりゃそうだろ。わざわざ文字に書き起こすなんて親切な真似するかよ、アイツが】
 突如割り込んできた、知らない男の声。
 息が詰まる。全身の動きが一瞬止まった。
 それから、思い出したように脳が微震する。
 全身に伝播した感覚器の異変。
 吐き気や眩暈にも似た感触。
 アーノルドは振り返る。
 音もなく、気配もなく。
 すぐうしろには、大男が立っていた。