第二章

     9

 ヒューゴー・ダルシアクは、放棄されて久しい無人の廃墟の中を歩いていた。
 まっすぐに突き進んだ先。狭い入口から階段を下りると、ヒューゴーは地下に足を踏み入れる。歩くたび、硬質な足音が反響する。地下の暗闇。
 幽かな人の気配が、その静寂を揺らした。
 ヒューゴーはゆっくりと立ち止まる。
 そこでは、地面に転がされた男が、荒く震える息を零していた。拘束されたその男がヒューゴーを見上げる。顔は涙と涎の痕に塗れており、今もまた、生理的な涙が目を覆い始めていた。
 耳障りな呼吸音。
「それにしても、貴様がスパイだったとはな」ヒューゴーは一歩近づくと、男の顎を靴先で持ち上げた。喉ぼとけに靴先を押し込む。「惜しいことをした⋯⋯、と、言いたいところだが。今となっては情報もあまり意味を成さんか」
【んなこと言ってやんなよなあ】少し離れた場所で、ひとりの若い男がヒューゴーに声をかけた。眼鏡をかけた、比較的線の細い悪魔である。どこから持ち込んだのか、朽ちかけた椅子に逆向きに跨って座っていた。背もたれに肘を置き、頬杖をついて顔を傾けている。すぐに、大きな欠伸をした。【あの通信機だって、コイツが素直に吐いたから回収できたんだしさあ⋯⋯】
「情報というほどのものではない」ヒューゴーが低く吐き捨てる。「どいつもこいつも⋯⋯」
【あれ、もしかして、どいつもこいつもって、コイツと俺のこと言ってます?】
 ヒューゴーは悪魔の言葉には答えず、地面に転がる男の顎から足を離した。男の呼吸が不規則になる。ヒューゴーは、それを見下ろしていた。
 あの日、首を斬り捨てずに、アーノルドの屋敷から連れてきた男。
 理事と共にいた、協会の一会員。
 アダムと呼ばれる人造生命を作り出した組織に、秘密裡に出資している貴族や団体が複数存在することは知っていた。その中に、協会に所属する貴族がいることも、この男が、その家の息子であることも知っている。だが彼が、組織と実家に逆らい、密かに理事会に協力していたことは知らなかった。
 だからといって、この男から得られた情報はそう多くはない。
 自分が反旗を翻し、理事会に協力するにいたった経緯。理事会が通信機を持っていたこと。アーノルド・エルガーの協力が得られ次第、理事がその場で連絡を取るつもりだったこと。せいぜいがその程度だ。
【アンタ、ビビられすぎじゃない?】悪魔が言った。笑っているらしい。
 ヒューゴーが片膝をつく。男の躰はわかりやすく跳ねた。さらに乱れる呼吸ばかりが、この暗く濡れた地下室で震えている。
 男の前髪を無造作に掴む。頭を持ち上げた。
「貴様の仕事はこれからだ」ヒューゴーは乾いた声で告げる。「もう一度、スパイとして働け。幸い、貴様の同行はまだ知られていないようなのでな」
 ヒューゴーはさらに上体を屈める。髪を毟るようにして頭を持ち上げられた男は、高い息の混ざった呼吸を浅く繰り返した。
「いいか。今から例の組織に戻り、こう伝えろ。協会が動き始めた、逃げたほうがいい⋯⋯、とな。ああ、それから、以前脱走した研究員がひとり、東に亡命している、とも付け加えておけ。これだけだ。あとは此方で調整する。そうすれば、俺は二度と貴様に関与しない。そう約束しよう」
 男は、震えるように首を微かに横に振ろうとした。だが、ヒューゴーが髪を掴んでいるためか、小刻みに揺れるにとどまる。
「なんだ」髪を握る手に力を加えた。「まだなにか要望があるか?」
「お願いします」男の目から涙が零れた。「こど、子どもたちは、⋯⋯」
「保護の依頼を約束しよう」ヒューゴーの声はずっと一定だった。「ただし、それは貴様が此方との約束を遵守しているかぎり、の話だ。わかっているな?」
 男が小刻みに頷いた。まだ、男は泣いている。
 ヒューゴーは男の髪から手を離し、立ち上がる。
「テオドロス」悪魔の名を呼んだ。「この男が落ち着き次第、身なりを整えて解放しろ」
【なんだ。もういいんです?】
「時間の無駄だ」
【はいはい、了解しましたよお⋯⋯】悪魔は大口を開けて欠伸をしながら、ふらりと片手を持ち上げて手を振った。【ま、そんじゃな。ヒューゴー】
「礼を言う」ヒューゴーはそれだけ言い残して、地下をあとにした。
 移動。
 周囲は一転して、鬱蒼と深く生い茂る森に切り替わる。見慣れた森の中をヒューゴーは歩いた。靴に付着していた汚れは、既に跡形もない。
 革手袋を脱ぎ捨てた。
 森が開け、屋敷が現れる。その玄関を開けて屋敷の中に入ると、エントランスでは妹のクロエが悪魔のヨルゴスと共に立っており、すぐに此方に気づいて駆け寄ってきた。
 彼女を抱き締める。軽い体重。
 頬を触れ合わせ、彼女と向き合った。
「怪我はないか?」笑みを浮かべてクロエに訊ねる。怪我がないことは、初めから把握している。
「はい、兄様」
「無理を言ったな。それで⋯⋯」妹の背中に軽く手を添え、廊下を歩き始めた。「どうだった。そちらは」
「小型の爆弾をふたつ所持していました」クロエが答える。「兄様の仰るとおり、自動人形でした。目的も、理事会の件で、単なる偵察と思われます」
「やはりそうか」ヒューゴーは鼻を鳴らして笑った。「こうも幼稚極まりない一手では、思わず此方の予想も遅れるというものだ」
「私の行動が金卿に伝わってしまいました。申し訳ありません」
「構わん。伝わったところで、なんの問題もない」
 すぐ傍を歩くクロエが、ヒューゴーを目で見上げた。彼は微笑み、妹の視線に応える。
「心配はない」
「はい」
「彼女とは、言葉を交わしたか?」
 クロエは、ヒューゴーから視線を外すと、僅かに俯いた。
 ヒューゴーは、そんな妹を見下ろしながら、ゆっくりと立ち止まる。
「はい」彼女が言った。
 背中にまわしていた手に力を入れ、躰を抱き寄せる。
 彼女の頭部に、鼻先を寄せた。
 グレイの髪からは微かに煙の匂いがする。
 妹は直立したまま。
「シャルロット」
「はい」
「このあとの時間は、お前と共に過ごしたい。紅茶でも飲みながら⋯⋯、そうだな、ゆっくり話でもしよう」
「はい」
「なにかしたいことはあるか? なんでもいいぞ。それとも、外を歩きながらのほうがいいか?」
「いいえ」
「他には?」
「兄様がいてくださるなら、なんでもかまいません」
 祈りのような時間だった。
 ゆっくりと、妹の顔を見る。
 彼女は伏し目がちに、宙を見ている。
 彼女の表情が動くことはない。
 一度、瞬き。
 彼女の目が、窺うように機敏に此方を見上げた。また瞬く。視線は切り替わり、再び正面。
「そうか⋯⋯、そうだな」ヒューゴーは頬を弛め、妹の目もとを親指の腹でなぞる。「では、今日は俺が紅茶を淹れて準備しておこう。その間に着替えてくるといい」
「はい」
 クロエは頭を控えめに下げると、自室へと向かっていった。廊下を歩く彼女の姿が角を曲がる。彼女と充分に距離が開いたことを確認してから、ヒューゴーはいちばん近い書斎の中に入った。
 扉を閉める。
 咄嗟に、片手で口を覆った。
 速度を増す拍動を無理やり抑えつけながら、壁に寄りかかる。力が入らない。膝を曲げ、上体を力なく折り曲げる。
 床に、膝がついた。
 その途端、
 濡れた咳の衝動が、躰の底から湧き上がる。
 勢いよく咳き込んだ。
 次々と気道を裂く熱。
 口腔内に、鉄の匂いが広がる。
 口を覆った素手を見る。手は、血に濡れていた。
 焼ける喉。
 割かれた内部。
 全身を支配する脈動。
 手は震え、
 血の味が鼻腔を通り抜けた。
 また、絶えず迫り上がるなにか。
 喉に溢れ、
 咳き込む。激しい咳が続く。
 荒い息。
 床にも血が飛び散っている。
 無性に、腹が立った。
 腹が立って、仕方がなかった。
 この世のすべてに。
 己の、すべてに。
 壁に頭を預け、ひとり、目を閉じる。
「シャルロット⋯⋯」
 絞り出したその声は、もうほとんど掠れていた。