第二章

     8

「とにかくだ。今回に関しては見逃されたってことなんだろうが、どう見たってヤバい奴なのはわかりきってただろうが。やめろよ、ほんとに、マジで」
「そうですね」エルの返事は、他人ごとのような相槌だった。
「ったく⋯⋯」後ろ髪を掻く。「わかってんのか、ほんとに」
「お父様とお母様にはどうされたのですか? 聖戦のことは、もうお伝えに?」
「いや。お前の目のことはさすがに伝えたが、戻ってこれるかどうかは知らん。まあ、事情が事情だからな。一度くらいは無理してでも戻ってくるだろ」
「そうですか⋯⋯」彼女は一度頷いて、ソファから立ち上がった。「お話は以上ですか?」
「部屋に戻るか?」
「ええ。少し、休もうかと⋯⋯」
 俯いた拍子に、長い金髪が彼女の表情を隠した。アーノルドはそんな妹を眺めたのち、自分もソファから立ち上がる。部屋を横断し、先に扉を開けた。
「部屋まで送る」
「あ、いえ、ひとりで⋯⋯」そう言いかけた彼女は、しかしすぐに口を閉ざす。今日のできごとを思い出したのだろう。「いえ⋯⋯、ありがとうございます」
 ふたりで研究室を出て、妹の部屋に向かう。
 やはり、もどかしいほどの速度で。
「あの」途中、エルが口を開いた。アーノルドは斜め後ろの妹に視線だけで答える。「兄さんは⋯⋯、大丈夫、だったんですか」
「なにが?」
「先ほど、庭で、銀卿と⋯⋯」
「ああ⋯⋯」アーノルドは正面に顔を戻した。そういえば、先ほどの戦闘を妹は窓から見ていたのだ、と思い至る。「問題ない。慣れてる⋯⋯、ってのはだいぶ語弊があるが、学生時代はずっとこんな感じだったしな。いきなり襲いかかってくるわ喧嘩は売ってくるわで、何度ボコボコにされたことか⋯⋯。おかげで無駄に鍛えられた気はするが」
「そうなんですね」数秒の沈黙。「初めて聞きました。兄さんの、学生時代のお話」
 なにかを答えようとした。しかし、声になった答えはない。
 結局、それ以降、彼女の部屋の前に到着するまで、どちらも口を開くことはなかった。扉が閉められる直前、隙間から見えた窺うような彼女の赤い目の色が、いやに頭にこびりついている。
 それにしても。
 呪いで目の色が変わる、というのも妙な話だ。少なくとも、アーノルドはそのような話を聞いたことはない。
 これが、死に至る呪いの色なのだろうか。
 或いは、果実を意味する色なのか⋯⋯。
 アーノルドはひとり、廊下を歩く。
 大股だ、と自覚する。歩く速度も早いと感じた。ここ数日は、妹の歩幅に合わせて歩く速度を落とすことが多かった。
 小さな妹だ。
 とても簡単に、貫けてしまいそうな躰。
 そこまで想起して、アーノルドは苛立たしさを無言で吐き出す。
 いずれ兄に殺されるという、致死の運命をその身に打ち込まれた妹。自分たちは今、その未来を避ける術を持たない。
 解呪することができない、致死の呪い。
 その呪いをかけられた張本人である妹が言っていたように、解呪できない呪いはこの世に存在しない、と言ってもいい。実際に可能かどうかはさておき、人間が付与した呪いである以上、解呪の方法自体は必ずあるはずだ。
【解呪できない呪いなんて、神サマってヤツと変わりねえよ】悪魔はそう言って、鼻で笑っていた。先日数多く投げかけた質問のうちのひとつに、悪魔がそう答えていたことを思い出す。【1+1が3になるとか、時間クロックの操作だとか、なんにもないところから物を生み出すとか、そういうレベルの話だ。記譜のルール、音楽のルール、指示なく曲の巻き戻しはできない、先へ進んだら進みっぱなし⋯⋯、な、そういうモンだろ? それと同じだ。そもそも弄れない領域なわけ。もしこの世に絶対に解呪できない呪いなんてモンがあるとすりゃ、その呪いってのは、たとえばこう、編集がロックされてるような、根幹の階層レイヤに捻じ込まれた命令文、ってことになるんだろうが、ンなもん、まずありえねえな。大体、そこが編集できちまったらそもそも曲として成り立たなくなる。あっという間に崩壊まっしぐらだ】
「じゃあ、エルの呪いは⋯⋯」
【呪いを解く方法自体はある】悪魔は、いとも容易くそう言ってのけた。【だがな、坊ちゃん。解く方法があるってだけだ。俺は、解けるとは言ってない】
「なんの違いだ、それ」
【単刀直入に言やあ、解くために必要なものを用意できない】悪魔が人差し指を弾いて立ててみせる。それは、異様に長い指先に見えた。【ってよりは、仮に用意できたところで⋯⋯、っていうのが実際のところだわな。どのみちお前さんの望むようにはならねえよ】
「望むように?」
【正真正銘のハッピーエンドってわけにはいかねえだろ。世の中、等価交換で成り立ってんだし】
「あの爺ども⋯⋯」アーノルドは腕を組み、小さな声で呟いた。「だったら、どうやってこんな呪いを⋯⋯」
【解くのに必要なエネルギィと同じだけのエネルギィが要る、とは言っておくが】
「イヴとかいう奴を先に殺せば、妹の呪いは本当に解呪できるか?」
【おーおー、ほんとに遠慮なく質問してくるな、お前さん。そうねえ⋯⋯、予測は難しい、ってのが正直な感想かね。いかんせん、その呪い、だいぶ捻じれてっからな】
「捻じれ?」
【どうなるかは微妙なところだ】
「なら、解呪は現実的じゃねえって?」
【望みは薄いな】
「悪魔のお前たちでも?」
【俺たちをなんだと思ってんのかは知らねえが⋯⋯】悪魔が笑った。【俺たちが悪魔って呼ばれてンのは、あのジョフロアの野郎が⋯⋯、おっと失敬。我らが偉大なる始祖の野郎が遊び半分でつけた名前だ。なんせ、俺たち悪魔の定義は、聖書だ神話だに登場するあの悪魔じゃない。俺たちの定義は、あくまで、仕事をするもの、なんだからよ】
「仕事?」
【そう、仕事。つまり、俺たち自身が魔力っていうエネルギィそのもの⋯⋯、と、言えなくもない。や、正確に言やあ、概念を無理やり投影して疑似的に実体化させてるだけなんだが、ともかく⋯⋯、魔力そのものが形を取ってる、とでも思ってくれりゃいいかな】
「等価交換なしの瞬間移動はできるのに、解呪はできないってか」
【ありゃ辻褄合わせを利用してるだけだ。一秒後にヒューゴーが家にいるってことにしたら、そこに飛ばざるを得ないっていうか⋯⋯、瞬間移動ってより、ほぼ呪い⋯⋯、あ、いや、そんなこと言い出したら、魔術なんてモンは全部呪いだよな。お前さんが火を操るのだって、コンマ何秒後にこうあれ、次はこういう挙動をして、未来ではこうなっているように⋯⋯、って呪ってるようなモンだろ?】
「なんだ。じゃあ、あの瞬間移動も、エネルギィ⋯⋯、てことはつまり、魔力と等価交換してることになるのか」
【ご名答】悪魔は唇を斜めに吊り上げて笑った。【言ったろ。世の中、そうウマい話はねえってな】
 研究室に戻る。
 奥のデスクの引き出しの鍵を開け、先ほどヒューゴーから受け取った通信機を見た。
 これを、理事が持っていた。
 そして、組織について「すぐに知ることになる」と言った、理事の言葉。
 あの日⋯⋯、
 組織の場所を訊ねたアーノルドに、悪魔は【知っている】と答えた。
【だけど、お前さんが今乗り込んだところでなあ⋯⋯】
「場所がわかったからって、今すぐに乗り込むとでも思ってんのか?」
【違うのか?】冗談めかした問いかけ。
「どっちかっつうと、それをやりかねないタイプなのはヒューゴーのほうだろ」
【ま、心配しなくてもじきに知れる】悪魔が笑った。【問題ない】
 通信機を手に取る。
 明らかに速まった自分の鼓動を鎮めるように、アーノルドはゆっくりと一度、呼吸をした。