第二章

     6

 道中で使用人にコートを預け、妹の部屋に向かった。
 エルの部屋の扉をノックすると、ドアを開けて顔を見せたのは妹本人だった。侍女が姿を見せると思い込んでいたため、アーノルドは固定していた視線の高さをもう一段階下げなければならなかった。
 妹の表情よりも、金髪のつむじのほうがよく見える。
「なんですか」ドアの取っ手に手をかけたまま、妹が先に口を開いた。声の端が硬く強張っている。警戒しているようだ。
「侍女は?」アーノルドはドアの隙間から控えめに室内を窺う。
「いません。彼女にご用事ですか? でしたら、もうしばらくは此方には戻ってきませんけど」
「いや、用事はお前だ。いろいろと話がある。しばらく帰ってこないんならちょうどいい」
「ちょっと待ってください、」
 突然、エルがドアを瞬発的に引き寄せる。アーノルドは反射的に、今にも閉まりそうな隙間に手を入れて扉を掴み、ドアの動きを止めた。
「おい。なに閉めようとしてんだ」
「わたしの部屋で?」
「なんか問題か?」
「本気ですか?」彼女はドアの隙間からアーノルドを睨んでいる。
「はあ?」
「お話って、べつに兄さんの研究室でもいいんですよね?」
「そりゃそうだが⋯⋯」
「じゃあそうします。だから、どいてください、そこ」
 どうにも釈然としない気持ちはあったものの、事実、彼女の部屋でなければならない理由はどこにもない。強いて言えば移動が少なくて済むというだけの話だ。アーノルドは比較的素直に二、三歩後退した。
 一度部屋の中に戻った彼女は、一分もしないうちに部屋から出てきた。ドアを少し開けたままにして、ふたりはその場を離れる。彼女は大人しくアーノルドのうしろについてきた。
 階段を降りる。
 途中、応接室の傍を通った。自分の半歩後ろを歩いていた彼女は、窺うように応接室のほうに視線を向けている。
「応接室なら、元に戻ったぞ」
「え?」彼女が此方を見上げた。
「見てみるか?」
「いいえ⋯⋯」エルは僅かに頭を横に振り、俯く。「結構です」
 研究室に到着し、部屋のソファに腰かける。顎で向かいのソファを指し示すと、エルも静かに腰を下ろした。
「茶、要るか」
「いえ⋯⋯」
「さっき、エントランスでひととおり説明は受けたが⋯⋯」アーノルドは慎重に言葉を選んだ。「爆弾が投げ込まれたらしいな。怪我は?」
「ありません」
「なんか、躰に変わったことは?」
「いいえ⋯⋯。特にありません」
「クロエに会ったんだってな」
 俯きがちだった彼女が、僅かに頭を持ち上げた。赤い目が、アーノルドを掠める。
「はい」
「なんか言ってたか」
「いえ⋯⋯」また、エルが俯く。「特に⋯⋯、なにも、仰っていなかったと思います」
「クロエが助けに来たのか?」
「ええ⋯⋯。たぶん。そういうことになると思います。意図はどうあれ、事実としては、わたしたちを守ってくれたようですし⋯⋯」
「なのに、なにしに来たかも言わなかったのか?」
「わたしに危害が及ぶことを、あらかじめ⋯⋯、把握していたよう、です」エルが、手探りな様子で口を開く。「でも、なにを聞いてもわからないと答えるばかりで⋯⋯」
「クロエらしいな」
「そうなのですか?」
「会ったんだろ? クロエに」アーノルドは眉を寄せ、少し持ち上げる。「まあ、会話が膨らむような相手じゃねえか」
「よくご存じなのですか? 彼女のこと⋯⋯」
「いや、全然。会う機会自体はあったが、喋るところもほとんど見たことねえし。つか向こうは、俺のこともあんまり覚えてないだろうしな」
「覚えていない?」エルが微かに眉を寄せた。「そんなことがありえるのですか?」
「兄貴以外のことはジャガイモかなんかに見えてんじゃねえの。たぶん」アーノルドは体勢を崩し、足をさらに広げてソファにもたれかかった。「そんなに気になるか? クロエのこと」
「気になる⋯⋯、というか⋯⋯」エルは視線を下方に彷徨わせる。「その、きちんと、改めて、お礼をしたい、というか。助けていただいたのですから⋯⋯」
「お礼ねえ⋯⋯」
「連絡は取れないのですか?」
「取れなくはないが、取ってどうすんだよ」
「どうするって、その⋯⋯、お茶に、お誘いするとか」
「それが礼になんのか?」
「ならない、かもしれませんけど⋯⋯」
 俯いた彼女が唇を少し巻き込むようにして嚙んでいるのが見えた。膝の上で揃えられていた手にも、力が入っている。
「会いたいのか?」
 アーノルドが訊ねると、エルの肩に力が入る。
 視線を感じたのか、彼女は一度、赤い目でアーノルドを見上げる。すぐに、その目はまた俯き気味に彷徨った。
「同年代の女の子とお話する機会くらい、用意してくださってもいいんじゃないですか」やがて、彼女は平坦な低い声でそう言った。
「あのヒューゴーの妹だぞ」
「わかっています」
「ろくに会話になんねえぞ、たぶん」
「べつに、かまいません」
 アーノルドは、肺に溜まった空気を吐き切る。
 ソファから立ち上がると、彼は棚のほうに向かった。
 実験用のビーカでお湯を沸かしつつ、ティーポットに適当な茶葉を放り込む。沸騰したお湯をポットに入れて待つ間、近くのカップを簡単に洗い、ポットからそのままカップに紅茶を淹れた。
「そのビーカ⋯⋯、洗ってあるんですか?」カップをふたつ持っていくと、エルが恐る恐るといった様子で訊ねてきた。
「当たり前だ。大体、これは水を沸かす用だ」テーブルの上にカップを置く。「味は期待すんなよ」
「どうしてご自分で?」
「わざわざ呼びつけるより自分でさっさと淹れたほうが早い」
「つくづく思っていましたけど、兄さん⋯⋯」
「あ?」ソファに腰かける。「んだよ」
「ご自分の、お立場の自覚、あるのですか」
 アーノルドは短く息を吐いて笑った。「てめえに言われたくはねえな」
 エルは睨むように此方を目だけで見上げている。だが、しばらくして、無言のままカップに手を伸ばした。
 カップを持ち上げて、口をつける。
 アーノルドはその様子を見ながら、自分も紅茶を一口飲んだ。
 この数日間で、アーノルドの彼女に対するイメージは大きく変わった。関わるたびに彼女の幼い部分がよく見て取れる。だが少なくとも、今までの、まるで知らない少女だった妹よりは幾分ましだ、と思う。
 妹は、この屋敷の敷地からおよそ一度も外に出たことがない。それはひとえに、彼女の持つ才能のためだった。
 いわゆる、呪いの才能。
 それが、彼女の持つ天性の才能だった。
 その才能を知った両親は、彼女をスクールには通わせなかった。その代わり、屋敷内ですべての教育を施した。協会の目を避け、会員の目を避け、貴族の目を避け、世間の目を避け、国家の目を避ける。すべては、彼女を守るために。両親は、息子であるアーノルドにすらその詳細を語らなかった。
 詳細を知ったのは、アーノルドが大学に入学し、色位を得た頃。
 両親が外交官として長期間海外に派遣されることになり、そこでようやく、アーノルドは彼女の詳細を知った。大学で早々に学位を取得したあと、アーノルドは屋敷を任されて今に至る。
 家に戻ると知らない少女がいた。当時の自分にとっては、ほとんどそんな感覚だった。妹が生まれた頃の記憶も自分にはない。しかも、自分が協会の寄宿学校に通っている間に、彼女は成長の大半を終えていたのだ。
 そのためか、こうしてふたりで会話を続けている状況が、いまだに奇妙で、どうにも不思議だった。