第二章

     4

 アーノルドはヒューゴーの言葉を受けて尚、体勢を維持している。ナイフの切先を男の脇腹に突き当てたまま、ヒューゴーを睨み上げる。
「まだ足りぬか?」視線を受けて、ヒューゴーは口を斜めに持ち上げて笑った。「では、こうしよう。此方から攻撃はしない。お前が受け取ったことを確認次第、俺はこの場から退散しよう」
 アーノルドはナイフを構えたまま、ゆっくりと躰を起こして距離を取った。
「遺品を盗んだっつったな」
「そうだ」
「で、わざわざ盗んだのにもう要らねえって?」
「もとより俺には必要ない」
 ヒューゴーの言葉を三秒ほど考え、アーノルドは盛大に溜息をついた。ナイフを畳むと、自分のコートを拾って土埃を叩いて落とす。
「吹っかけんじゃなかった」アーノルドはそう言ってヒューゴーを睨んだ。「おかげでこっちはただ疲れただけじゃねえかよ」
「それは此方のセリフだ」ヒューゴーが軽く肩を竦める。
「じゃあさっさと寄越せ、それ。なにかは知らんが」
「そら」
 ヒューゴーが片手でなにかを放る。咄嗟に手を伸ばしてそれを掴んだ。細長い筒だった。上下の蓋からは、長い首が九十度に折れ曲がったベル状の物体が伸びている。筒の中には、液体が入っているらしい。全体の形状としては、直線的なCに近い。筒の側面に、いくつかメカニカルな部品が見受けられた。
「なんだ、これ」
「通信機だ」ヒューゴーが答えた。「どこに繋がるかは、お楽しみといったところだな」
「理事が持ってたのか? これを?」
「そうだ」
「お前、なんでこれが通信機だってわかる?」
「構造を見れば一目瞭然だろう。俺たちが使用する通信機と大して違いはない。振動体として石を用いたか、液体を用いたか、入出力の切り替えに魔術を用いるか物理的なスイッチを用いるか程度の差だ。まあ、しくみとしてはほとんど糸電話だな」
 糸電話を知っているのか、とアーノルドの意識は妙なところに向いた。何分、この男にはおよそ似つかわしくない単語である。
「どこに繋がる?」
「知らん。だが、見当はついている。ほぼ確実だ」
「じゃあそれを教えろよ」
「すぐに知れる」ヒューゴーは鼻で笑った。「では、約束は果たしたぞ、アーノルド。ああ、それと⋯⋯」一度、快晴色の目が屋敷に向けられた。「レディによろしく伝えてくれ」
「は? なにを?」
 しかし、そう問いかけたときには、ヒューゴーの姿はどこにもなかった。ひとり、広大な庭の真ん中に取り残される。アーノルドは念のため、見慣れない通信機を持った手に脱いだコートを被せて隠し、吹き飛ばされた拳銃と剣を回収した。途中、爆破した地面のあたりを意味もなく足で均してみる。
「卿!」声のほうに顔を上げると、執事が此方に向かってほぼ駆け足で小径を歩いてくるところだった。「ご無事でございますか!」
「問題ない」アーノルドは声を張り上げて答えた。「大丈夫だ」
「ですが、しかし、あれは⋯⋯」
「どうせあいつにとっちゃ挨拶みたいなもんなんだよ、アレ。騒がしくして悪いな、急に⋯⋯」
「いえ⋯⋯」執事はアーノルドの前で歩みの速度を落とすと、眉間に深い皺を寄せる。「あの⋯⋯」
「なんだ」
「たいへん申し訳ございません」執事の低く太い声。そして、彼は深く礼を取った。「実は、先ほど、エントランスに爆弾が投げ込まれました」
「は?」アーノルドは思わず屋敷の上階を素早く見上げ、再び執事に顔を戻した。「爆弾?」
「ですから、もしや、先ほどの爆撃も⋯⋯」
「あ、いや、あれは俺だ」
「え?」
「まさかとは思うが、そっちに飛び火したか?」
「あ、いえ⋯⋯、爆弾が投げ込まれたのは、四十分ほど前のことです。爆弾を持ち込んだ者は既に自死しておりますが、ご指示があるまでは触らないほうがよいと判断し、ただいま、エントランスは、そのままに⋯⋯」
 執事の説明を受けながら小径を歩く。近くまで駆け寄ってきた使用人のひとりがコートを受け取ろうとしたが、アーノルドはそれを断り、代わりに馬車を呼び戻してほしい、と頼む。ヒューゴーのせいで、協会に置き去りにしてしまったのだ。
 執事が玄関を開ける。
 エントランスは、爆弾という単語から予想した景色とは異なり、思いのほか整然としている。床がへこんで破損しており、たしかに燃えた匂いや痕跡は残されているものの、すべてが木っ端みじんになった、という様子ではない。
 そして、その場にうつ伏せに倒れている遺体が、どう見ても十歳前後の少年であることにアーノルドは驚いた。
「この子どもが?」アーノルドは隣の執事に訊ねる。
「そうです」
「ひとりだったのか?」
「はい。敷地内で不審な動きをしていたところを捕らえました。侵入経路は不明です。しかし、拘束しても大人しく、少年でしたので、ひとまず卿がお戻りになるまで、一室に閉じ込めておくべきではないか、とエントランスで話し合っていたところに、運悪く、お嬢様が降りてこられ⋯⋯」執事が一度、大きな躰を震わせて息を吐き出した。「すると突然、その少年が、手に握り込んでいたなにかをお嬢様目がけて⋯⋯。本当に、申し訳ありません。いかなる処分も重く受け止める所存ですが、しばしの間、ご説明のために、私がこの場に執事として立つことをお許しいただきたく⋯⋯」
「ちょっと待て。エルは無事なんだよな?」
「はい、ご無事です。お怪我もございません」
「なら⋯⋯」アーノルドは周囲を見渡しながら呟いた。「よっぽどその爆弾ってやつの威力が低かったか」
「幸いなことで⋯⋯、そのようです」
「だが、それにしては⋯⋯」床を見る。明らかに焦げついた色と損傷が、ごく狭い範囲に見られた。「これ、どっかに連絡したか?」
「いいえ。まだどこにも」執事は頭を横に振った。「まずは卿の判断を仰ぐべきと⋯⋯、私が判断いたしました」
 アーノルドはその場にしゃがみ込み、うつ伏せの少年を見る。力なく床に投げ出された手には焦げ痕が見られた。それから、僅かな土汚れと靴底の痕。痕は、まるで遺跡から発掘された粘土板のように、はっきりと残っている。妙に張りの良い肌だった。
 違和感があった。
 アーノルドは顔を覗き込む。
「おい」アーノルドは少年の大きな帽子を持ち上げた。「ちょっと待て。これ⋯⋯」
「失礼します」執事がアーノルドの横から少年の顔を至近距離で確認した。
 数秒間の静寂があった。
「これは⋯⋯」執事が唸った。
「人間じゃない」少年の頬に触れる。皮膚よりも、明らかな厚さと弾力がある。「まさか⋯⋯、自動オート人形マタか?」
「オートマタ?」困惑した執事の声。「まさか、これほど精巧な人間の⋯⋯、いえ、しかし、可能でしょうか? こんなことが⋯⋯」
「なあ、誰か会話したか? こいつと」
「いいえ」執事は立ち上がりながら頭を横に振る。
「なら、できなくもない。たぶん、簡単な命令があって、そのとおりに動いてただけだな。条件次第では、分岐して、特定の行動を取るようにする⋯⋯」アーノルドはしゃがんだまま、少年を観察しながら顔を上げずに訊ねた。「なあ⋯⋯、爆発したとき、近くにいたか?」
「はい、おりました。近くにいたのは、私と、従僕がひとり、それから、お嬢様と侍女と⋯⋯」
「爆発してすぐ、周囲の声はちゃんと聞こえたか?」
「声ですか? ええ⋯⋯、はい⋯⋯、ええ、たしか、特に問題なく」
「近くにいた奴の中で、飛んできた破片とかで怪我をした奴は?」
「いいえ。おりません」
「煙は?」
「あ、ええ⋯⋯。煙はかなり広がっておりました。少しの間、周りが見えなくなるほどだったかと」
「ふぅん⋯⋯」アーノルドは、少年の手の甲に残る靴底のサイズを、片手の指を広げて測る。「そんとき、エルの侍女はどこにいた?」
「お嬢様のすぐお傍です。お嬢様に正面から覆い被さって、できるだけ爆発から遠ざかろうとして⋯⋯」
「侍女に怪我は?」
「ありません。ですが、あの、卿、実は⋯⋯」
「クロエが来たんだろ」
 アーノルドは立ち上がり、執事を見る。執事は驚いたように目を見開き、息を止めていた。