第二章

     3

 その日、アーノルドは再び協会支部を訪ねていた。教会の地下に降り、協会支部で仕事を済ませる。仕事といっても、サインと形式的な承認の儀式をおこなっただけだ。協会本部の執行局と、各支部の評議会による推薦と投票を経て、新しく指名された理事を承認する。アーノルドたち色位の主な仕事のひとつが、人事の承認である。
 普段であれば、色位全員が本部に招集され、そこで承認がおこなわれる。しかし、今回は緊急性の高い人事だったためか、それとも、できるかぎり秘密裡に済ませてしまいたかったためか、支部に出向くだけで済んだ。そういえば、ヒューゴーのサインはどうなるのだろう、とふと考えたが、理事を殺害した男が新しい理事会の人事を承認する、というのは、どうにもグロテスクな構造である。
 アーノルドは早々に仕事を終えたのち、副支部長に声をかけた。
 とにかく、なにか、手がかりや情報がひとつでも欲しかった。先日の事件に関して、或いは理事らについて、なにか気になることはなかったかと訊ねたところ、副支部長は寄せた眉を下げつつも曖昧に頷いた。
「所持品でしたら、まだこちらでお預かりしています」
「所持品って⋯⋯、事件当日のか?」
「はい⋯⋯」ハンカチを軽く額に押さえつけながら副支部長が答える。「なにか事件に関係するものといっても、そのくらいで⋯⋯」
「見ることはできるか?」
「あ、ええ⋯⋯」副支部長はうしろに振り返った。「あちらを、左に曲がっていただいて、いちばん奥の個室に保管しております。左手側です」
 アーノルドは礼を述べ、すぐにそちらに向かった。
 左に曲がった通路の突き当たり、左手側の扉。
 開ける。
 埃の匂いが鼻を掠める。
 狭い空間だった。
 暗い部屋の中。
 男がひとり、此方に背を向けて立っている。
 後頭部。
 短い髪だ。
 薄暗闇の中で尚、輝きを放つ髪。
 口もとが引き攣った。
 男が振り返る。
 見間違うはずもない。
 理事の遺品の前に、ヒューゴー・ダルシアクが立っている。
 目が合った。
「驚いた。まさか、ここで鉢合わせるとは⋯⋯」ヒューゴーが青く輝く目を笑みの形に歪めた。「奇妙なこともあるものだ。もっとも、手間は省けたか」
「おま、」
 アーノルドが室内に入るや否や、背後の扉が勢いよく閉まった。
 うしろを振り返る間もなく、すぐに、地面が硬度を失い、不安定に大きく波打つ。
 浮遊感と共に吐き気が喉奥まで持ち上がる。
 渦の中に身を投げ込まれ、
 明るくなった。
 瞼を貫通して、眩しさが突き刺さる。
 後ろに数歩よろめきながら、躰を支える。
 外の匂い。
 地面があった。
 緑の芝だ。
 周囲を素早く見渡す。
 広大な庭。よく見知った、自分の屋敷がある。
 数メートルの間を開けて、正面にはヒューゴー・ダルシアク。
 瞬間移動をしたのだ、とようやくアーノルドは状況を呑み込んだ。
「お前⋯⋯」アーノルドは吐き気を唾と共に飲み下す。「東だかなんだかに行ってたんじゃなかったのかよ」
「あちらでの用はあらかた済んだのでな」
「なにしてやがった。あんなところで」眉を寄せる。
「お前こそ、よくあの部屋に赴こう、と考えたものだ」
「あの部屋でなにしてたんだって訊いてんだろ!」
 答えない。ただ、ヒューゴーは目を細め、口もとを弛めた。
 アーノルドは顔を歪め、拳銃を取り出す。
 拳銃を握り、
 しかし、
 次の瞬間、右手が弾かれた。
 拳銃が後方に吹き飛ぶ。
「言っただろう」ヒューゴーが片腕を下ろす。「ポケットに入れたままでは反撃が遅れるぞ、と」
 横目でたしかめる。拳銃は、既にかなり後方。
 正面に視線を戻す。
「貴様の最大の脅威は、発火さえ防いでしまえば簡単に対処できる。ああ、それとも、もう少し狭い場所に飛んでやるべきだったか?」
 ヒューゴーが一歩、此方に踏み込む。
「もっとも、貴様にとってはこの場所でさえ手狭かもしれんがな」
 アーノルドは勢いよく左腕を突き出した。
 ヒューゴーの青い目が、僅かに見開かれる。
 空中を握り潰す。
 ふたりの間に煙と土埃が、
 一瞬で膨張し、破裂。
 爆発音。
 すぐにアーノルドは剣を取り出し、爆発に向かって走った。
 大きく踏み込み、跳躍。
 上空から爆発の中に飛び込む。
 濁った煙の中で、ヒューゴーが此方を目だけで見上げて笑っていた。
 剣を振り下ろす。
 削れるような高い金属音。
 攻撃を受け止められる。
 アーノルドはうしろに大きく二歩跳躍。
 再度踏み込み、姿勢を低く。地面に片手を軽く着き、前方に飛び込んだ。
 数度、剣撃の応酬。
 ヒューゴーの剣が迫る。
 アーノルドは斜めに傾けた剣でそれを受け止めつつ軌道を逸らす。互いに剣を払い合い、バックした。
 呼吸を整える。自分の息が熱い。
 口の端から、僅かに炎が漏れ出ている。
「ああ⋯⋯」ヒューゴーが可笑しそうに言った。「さながらこんじきの竜よな」
 アーノルドは大きく息をつく。舌を打った。「余裕かよ」
「そうか、お前は⋯⋯、あの発火装置の蓋を一瞬でも開けさえできれば充分だったというわけか。まさかあの短時間で、炎の構成要素を自らの呼気に織り交ぜて回収していたとは」
「もうてめえ相手には使えなくなったがな」
「いつの間に体得していた?」
「あ?」
「先ほどの省略ショート指示カットだ」ヒューゴーは揺らした剣先で、アーノルドの剣を指し示した。「省略ショート詠唱コードもなく剣を手に持ち、炎を操作し、爆発させてみせたではないか。俺の十八番だったはずだが」
「生憎、てめえみたいにお綺麗なやり方はできねえもんでな」アーノルドは低い声で答える。「んなもん、ゴリ押ししただけだ。百の手順が必要だってんなら、百の手順を頭からこなすだけだろ。下手に省略するよかこっちのほうが確実だ。性に合ってら」
「ひとつの手順をコンマゼロ一秒で処理すれば、百の手順も一秒で済む、とでも?」
 アーノルドは男の言葉を無視して、片足で地面を一回、踏み鳴らす。
 ヒューゴーの周囲に炎が走り、円を描く。瞬く間に、彼を取り囲むように燃え上がった。
 一瞬の時間稼ぎでいい。
 剣を構える。
 刀身に炎を流し込みかけたそのとき、
 炎を裂くように、剣を構えたヒューゴーが前傾姿勢で現れた。
 一閃。
 右手首に重い痺れが走る。
 甲高い音を立てて剣が弾き飛ばされる。
 その衝撃で、アーノルドの思考が途切れた。
 舌を打つ。
 本来は、コードを綴るか、読み上げるか。そうして形にしたコードに魔力を通すことで発動される、一連の命令。それが魔術である。だが、今のアーノルドは、命令を紙に書くこともせず、声に出すこともしない。ショートコードも使用せずに、ただ開始の合図を動作で指示するだけ。それは、脳内の思考をリアルタイムで読み上げられる、或いは、想像したイメージを脳から直接キャンバスに描いていくような所業に近しい。
 ひとつの誤りもなく、破綻もなく。シーケンシャルに、正確に、詳細に、脳内で出力し続ける。
 その間は、一切の雑音も雑念も許されない。
 それが、途切れた。
 やり直す時間はない。
 アーノルドは咄嗟に躰を捻り、目の前に突き出された剣先を避ける。その勢いのまま地面に手をつき素早く前転。男と入れ違う。前方に駆けながら、引きちぎるようにコートのボタンを外す。同時に、方向転換。
 ヒューゴーと向かい合う。
 此方を振り返ったヒューゴーに向かってコートを投げ捨てた。
 広がったコートが、互いの視界を遮る。
 衣服下のナイフを取り出し、再度走り出す。
 コートは、地面に落ちるよりも先にヒューゴーの回し蹴りによって薙ぎ払われた。
 そのときだ。
 男の動きに不自然な空白が見られた。
 アーノルドは一息、素早く息を吐き出す。
 炎の吐息が視界の端で揺れた。
 失速はしない。
 前方に飛び込む。
 大股で一歩。
 接地面をめり込ませるほど、強く踏み込む。
 躰を発射させ、
 ナイフを突き出す。
 静止。
 ナイフの先端は、ヒューゴーの脇腹。
 ヒューゴーの剣は、アーノルドの首に添えられている。
「いいだろう」ヒューゴーの、明らかに笑みを含んだ声が頭上から降ってきた。「盗んだ遺品はお前に預けよう」