第二章

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 執事の制止を断り、エルは「彼女と話をする」と主張した。二、三度のやりとりののち、せめてアーノルドの帰宅を待ってほしい、と執事がエルに頼んだが、その懇願はクロエによって一度断られた。
「私の来訪が金卿に伝わることを、兄は望んでいません」クロエの主張はそのようなものだった。
 やはり頷くことは難しい、と執事はエルに告げたが、エルの侍女の進言とクロエの譲歩により、クロエの来訪をアーノルドに伝える代わりに、ふたりで会話をした、という事実について執事は目を瞑り、アーノルドには伝えない、という形で決着した。通常であれば有り得ない判断だと言える。もっとも、それは先日のヒューゴー・ダルシアクの襲来時にも感じていたことだ。彼らに対して相当な信用がある、ということだろうか。
 しかし、おそらく、先ほどの使用人たちの態度からするに、彼らを信用しているのはあくまでアーノルドであり、使用人たちはただそれに従っている、ということらしい。
 緊張した空気の中、その場の処理を使用人たちに任せ、エルと侍女はクロエを連れ立って裏口から庭に出た。辺りは遠くまで見渡せる一面の芝だ。
 庭の小径を少し歩き、エルはベンチに腰かける。遠くには小さな湖が見える。侍女は頭を少し下げると、エルたちから少し離れ、木陰の下に立った。
「良かったら、座って」クロエに声をかける。
 クロエは、エルの前に立っていた。エルの言葉に、クロエは「いえ」と答えただけ。そのまま、ベンチに座るエルの前に姿勢よく立っていた。
 前に立つ少女を、エルは改めてよく見る。緩く癖のある銀灰髪が背中に流されており、ときどき波飛沫のように輝いて見えた。
 瞬く度に光を散らしているような長く繊細な睫毛と、水面のような青い目。薄く小さな唇。白いブラウスと黒い革手袋。彼女のすらりとした体躯によく似合った、乗馬用のようなスカートとブーツ。
 青く小さな石が、耳の下で小さく揺れている。
 間違いなく、銀卿の妹だ。
 応接室の惨状を引き起こしたヒューゴー・ダルシアクの姿とよく重なる。
 しかし、それと同時に、ひどく対極的な兄妹にも思えた。
 それでも⋯⋯、
 あの銀卿と、もっとも近しい人物であることは違いない。
 自分の鼓動が速まっている。
 対応を間違えてはならない、という緊張感が、エルの躰を僅かに強張らせていた。
「先ほどの、お話ですが⋯⋯」エルは慎重に口を開いた。「あの事態を予めご存じのようでした。その理由を教えていただけますか?」
「それにお答えするためには、金卿に会話内容をお伝えにならないことをお約束いただく必要があります」
「ええ⋯⋯」エルは息を吸う。「約束します」
「兄から聞きました」
「兄? ということは、貴女は銀卿からそう聞いた、ということ?」
「はい」
「どうして銀卿はご存じだったのですか?」
「わかりません」
「また、こんなことが起こるかもしれない?」
「わかりません。兄からはなにも聞いておりません。しかし、アーノルド様が今回の件をお聞きになれば、しかるべき措置を取られ、次回からの奇襲は問題なく避けられるものと判断します」
「あれは、なんだったの?」
「捕えられ、逃げられないと判断しての自爆、と考えるのが妥当と思われます」
「なぜわたしを狙うの? 相手は誰?」
「わかりません」
「少年だったわ」エルは俯いた。「どうして、あんな⋯⋯」
「わかりません」
「貴女は知らないのね?」エルは顔を上げる。
「はい」
「では、貴女は、今日起こることを銀卿から聞いて⋯⋯、それを阻止するために、わざわざこの屋敷に?」
「呪いをその身に受けたと聞きました」
 クロエの返事は、突然、話題から少し離れたほうへ飛んだ。屋敷に来た理由を口にしたくないのだろうか。もしかしたら、あくまで今回の事態は成り行きで、もともと助けるつもりはなかったのかもしれない。
「あ、ええ⋯⋯。そのとおりです。そのことも、銀卿からお聞きになったのね」
「申し訳ありません」
「どうして?」エルは思わず微笑んだ。
「いえ」クロエは伏し目がちに瞬く。クロエが微笑むことはない。
「それと、兄にこのことを伝えてはいけない理由は、教えてもらえるのでしょうか?」
「私の兄は今、対外的には、連絡が取れないということになっています」
「でも、貴女はわたしの前に現れてくれたのね?」
 クロエは、無言でエルを見た。睨むような視線だった。彼女の口もとには笑みの気配すら浮かばない。だが、不機嫌な態度とはまた違う。ともすれば無礼な表情に思えるが、しかし不思議と不快感はない。もっとも、それは彼女の美しさが成せるわざかもしれなかった。
「ねえ⋯⋯」エルが続けて口を開く。「それって、兄さんに内緒なら、わたしは貴女とお話できるってことかしら」
 初対面の少女に対して妙に饒舌な自分の態度が、少し可笑しい。
 近い未来で兄に殺され死に至る呪い、などというものをこの身に受けたためだろうか。投げやりな気持ちか、諦めか、それとも自分自身に言い聞かせようとしているのか。自身の性格以上に、大胆な言動を取ってみせている、ような気がする。
 まったく知らない、
 あの銀卿の⋯⋯、
 エルたちの目の前で、五人を殺害した彼の妹相手にもかかわらず、だ。
「ごめんなさい。無理を言ったわ」エルはそっと息を吐き出して、背筋を伸ばす。「でも、本当に、貴女には感謝をお伝えしたい、と思っています。助けてくれて、本当にありがとう。貴女がどういう思惑で動いていたとしても、それは事実です」
「いえ。もったいないお言葉です」クロエは一歩うしろに下がった。「失礼します」
 瞬きの間に、クロエの姿は消えていた。悪魔と呼ばれる存在は傍に見当たらなかったが、瞬時に移動することができるらしい。もうクロエはこの敷地のどこにもいないとわかっていて尚、辺りを眺めて確認してしまう。それほど、何度目にしても非現実的な光景だった。
 エルがベンチから立ち上がると、侍女がすぐに此方にやってきた。
「戻ります」
「はい」侍女が答える。
「ねえ、それより⋯⋯」エルは歩きながら侍女に訊ねた。「怪我はない? もしかしてと思って⋯⋯」
「ご心配には及びません。本当に、怪我などしておりませんので⋯⋯」侍女が軟らかく微笑んだ。「これも、ミス・ダルシアクの⋯⋯、レディ・シルバーのおかげでしょう」
「うしろに引っ張ってくれたから、ということ?」
「うしろですか? あ、いえ⋯⋯」そう言うと、侍女はエルに顔を少し寄せ、声を潜めた。「お嬢様に向かって投げつけられた、例の、爆発物のようなもの⋯⋯、あれを、お嬢様の傍から蹴り飛ばしてくださったようでしたので⋯⋯」
「蹴り飛ばす?」エルは思わずその場に立ち止まりそうになった。「彼女が?」
 思い返そうとしてみたが、そもそも覚えていることといえば、煙の苦さと音の大きさくらいなものだ。自分がいかに、なにも把握できずにただ突っ立っていただけかがよくわかる。
「あの、お嬢様」
「え?」
「たいへん申し訳ないのですが⋯⋯」
「あ、ええ⋯⋯、なに?」
「また裏口へ回っても構いませんでしょうか?」
「ああ⋯⋯、そんなこと。気にしないで。こんな事態だもの」エルは一度、背後に広がる庭を振り返った。
 兄の姿も、馬も、音すらも聞こえない。
 兄が戻ってくるのは、もうしばらくあとになりそうだ。