第一章

     9

 妹を部屋から追い出したアーノルドは、紅茶を飲み干したのち、研究室を出て応接室に向かった。途中、歩みを止めずに懐中時計をたしかめる。約束の時刻の五分前だった。歩く速度を少し上げて間もなく、応接室手前の一室に到着する。
 壁に背を預けて立つ。
 そう広くはない一室に立ったまま、一分ほど待った。
【よ、坊ちゃん】
 声は、アーノルドの左隣からした。
 そちらに顔を向けると、アーノルドの隣に、大男が立っていた。ちょっとした樽のような太い腕を組み、同じく壁に背中を預けて立っている。男は此方と目が合うと、気安く片手を持ち上げてみせた。
【待たせたな】
「こき使われて大変だな、あんたも」
【ほお⋯⋯】悪魔が壁から巨体を起こす。【そりゃお互い様ってモンじゃねえのか?】
「違う。俺はべつにこき使われてない。ただ迷惑かけられまくってるだけだ」
【そりゃそうだ】声の端々に笑いの滲んだ相槌を打つと、悪魔の大男は後ろ髪を掻きながら、応接室の扉のほうに向かって寝起きの熊のように歩き始めた。【しっかしなあ⋯⋯、俺たちだってそりゃ悪いとは思ってんだぜ。あの日のヒューゴーは、なんだ、こう、ちょっといろいろ立て込んでてだな⋯⋯、ずっと神経尖らせっぱなしだったっつうか。なんせ、頭に血ィのぼったまんまでよ】
「いや」アーノルドは頭を横に素早く振る。前髪が小刻みに揺れた。そもそも、アーノルドにとっては初めから、あの男の機嫌は一瞬にしてメータの限界まで振り切れるもの、という認識である。
 悪魔の男が扉の前に立つ。ドアノブに手をかけた。アーノルドは咄嗟に、全身に力を入れる。
【あ、そうそう】しかし、男は唐突に此方を振り返った。【掃除の前にちょっと相談があんだけどよ】
「相談?」似合わない言葉の響きに、アーノルドは思わず目を見開いた。
【悪いんだが、ちょっくら魔力を回してほしくてな】
「魔力?」
 あまり耳馴染みのない言葉だった。いや、時折、ヒューゴーが口にしていたかもしれない。
 だが、たとえその言葉をかつて耳にしていたとして、自分が覚えていないということは、ヒューゴーに説明を求めてもろくな返事がなかったということだろう。あれでいて、基本的には訊ねれば応える男である。
【なんだ。ヒューゴーから聞いたことねえのか?】
「記憶にない。〈神の力シータ〉のことか?」
【そりゃ外部魔力の話だろ。そうじゃなくて、体内生成するほうのエネルギィで⋯⋯、あ、いや、ウィスのほうが通りがいいのか?】
「エネルギィでいい」
【そうか? じゃあそれだ。ほれ、お前さんらが〈神の力〉だかなんだかを動かす資質だか能力だか、ほら、なんだ⋯⋯、たしか、名前があったろ】
「〈賜物カイ〉?」
【あ、それそれ】
「それって、そもそも他人に譲渡できるようなもんなのか?」
【おっと、そう来たか⋯⋯】悪魔の男はドアノブから手を離すと、躰を此方に向け、口もとを尖らせながら視線を上に逸らした。【だいぶイメージ違うみてえだな】
 なにかを考えこみ始めた悪魔を見て、アーノルドは男と向かい合ったまま、一度周囲を横目で確認する。場所を変えるべきか、と考えたが、辺りには誰もいない。もともとあまり使用していないエリアだ。それに、今は誰もこの辺りには近づきたがらないだろう。アーノルドはこのまま会話を続けることにした。
【とりあえず、そうだな。うん、魔力っていうのは、お前さんらが言うところの〈神の力〉ってのにアクセスして⋯⋯、形態だ出力だを操作するために必要なエネルギィだって理解でいいとは思うが】
「エネルギィ⋯⋯」アーノルドは低く呟く。
【能力っつうよりは、どっちかっていうと、イメージとしては力そのものなんだよな。ものに働きかけて、状態とか形態を変換する力、みたいなイメージなんだが、うーん⋯⋯】男は腕を組み、首を傾げて上を見た。【そうだなあ⋯⋯。あ、じゃあ、たとえば、だ。この現実世界ってのは、大きなひとつの劇場みたいなもんだと思えばいい】
「劇場?」
【神サマが造った、神サマのための劇場だな】男が答える。【だから、観客は神サマひとり。そんで、舞台の上で演奏してんのは、この世界にあるものすべてだ。人間だけじゃない。この世界上の自然現象全部が今そこで、リアルタイムで演奏してんだよ。今起こってる現象ひとつひとつが、楽団のメンバが各々演奏してる、その、それぞれの旋律みたいなもんだってこった。んで⋯⋯、曲ってよ、楽譜を見ながら演奏するだろ? お前さんたちは、つまり、その楽譜に書かれてる指示を一時的に書き換えることができる。そういうイメージだ】
「じゃあ、その楽譜ってのは、リアルタイムで書かれていくものなのか?」
【いや、全部ガッチガチに決まってるっていうより、演奏が進むたびに楽譜もどんどん書き足されていく、みたいな⋯⋯、ちょっと即興っぽいよな。いろんなパートの、いろんなメロディだのリズムだのを受けて、どんどん新しい音符とか、指示が楽譜に追加されていく、みたいな】
「選択の結果で、楽譜の先が決定していく⋯⋯、みたいなイメージか?」
【選択っつうよりは、確定によって、か。あとは、そうだな、決定⋯⋯、或いは収束だ】男は腕を組んだまま頷いた。【要は、アンタたちはその収束に一枚嚙めるってこった。リアルタイムで更新されていく楽譜を読み取ったり、先を予測したりして、数秒先の音符の位置をずらすとか、指示を書き換えるとか、そうやって、少し違う旋律に変えることができる。たとえば、そうだな、それがそよ風を表現した演奏だったとするだろ。そしたら、音符の位置をずらして不協和音の連続に変えたり、メゾピアノをフォルテッシモに変えたりだ、そうやって出力させれば、嵐にすることだってできる。それが、アンタたちがやってることだ】
「つまり、そういう⋯⋯、楽譜を一時的に書き換えるために使うエネルギィが、魔力、なのか」
【そうなるな】男は頷いた。【そんでまあ、その魔力ってのは、もちろん俺たち悪魔にだって、いろいろ弄るにゃあ必要になってくるわけ。普段はヒューゴーから巻き上げてんだが⋯⋯、今回の、この応接室の修復分だけ、お前さんの魔力を貰えねえかと思ってよ】
「俺の?」
【おうよ】
「お前の主人が勝手にやったことなのにか?」応接室の扉を指差す。
【それを言われるとなあ⋯⋯】悪魔が小さく肩を竦める。【じゃ、こういうのはどうだ。俺はアンタから魔力を貰う。その代わり、俺は、アンタの質問に答えられる範囲で答えてやるよ】
「わかった」アーノルドは即決した。「乗った」
【お、いいのか? 悪魔との取引きにそんな即答しちまって⋯⋯】男はにんまりと笑った。【ま、その心意気に応えて、質問はひとつだけ、なんてケチなことは言わねえでやるよ。ただ、あくまで答えられる範囲で、だ。あんま期待すんなよ】
「そっちから対価として提示してくる程度だ。たいして初めから期待はしてない」
【そういうこったな】
「あ、ちょっと待て。魔力の受け渡し方法は?」
【ん? ああ⋯⋯、そうだな。直接血を飲んでもいいが、まあいいや。ちょっとそこで火でも出して遊んどいてくれや】
「遊ぶ?」
【好きに操作してくれ。つまり、魔力を使ってくれ】
 アーノルドはポケットから小型の拳銃を取り出し、引き金を引く。灯った火を見つめて二秒。左手の指先に火を移す。白い手袋越しに、人差し指の指先に火が灯されているが、手袋や皮膚が燃えることはない。そのように操作している。拳銃はポケットに戻した。
「これでいいのか」
【オーケイオーケイ。んじゃ、俺が出てくるまでそのままだ。ちょおっと立ち眩みするかもだが⋯⋯、いや、お前さんにかぎってそれはねえか】
 男はひとり楽しそうに笑いながら、応接室の扉をなんの躊躇いもなく開けた。アーノルドは咄嗟に鼻の息を止める。
 同時に、一瞬、熱が出る前兆によく似た妙な感触が全身に薄く這ったが、すぐにその感触は消えた。
【ほらな。アンタにかぎってそれはねえよな、金卿⋯⋯】悪魔は応接室に足を踏み入れながら、此方を振り返る。黄金に輝く奇妙な目をにんまりと細めて、彼は笑った。【じゃ、訊きたいことでも考えながら、のんびり待っときな】