第一章

     8

 少しの間、妙な空白があった。
「つか、お前⋯⋯」アーノルドは額を押さえながら俯いた。「なんつうか⋯⋯、よく今まで黙ってられたな」
「口を開く機会をあまりいただけなかったものですから」明らかな嫌味を含んだ声音だった。
 アーノルドは舌打ちを堪える代わりに、顔をわざとらしく歪め、首を傾げながら天井を見上げる。妹という生き物に、早くも苛立ちが募りつつあった。だが、今は、その苛立ちに振り回されるわけにはいかない。
 丸めた舌の先で歯の裏を少しなぞる。
 そうしながら、苛立ちを掻き分けて次の伝達事項を急いで検索する。空白を意味もなく往復する感触を数度繰り返したのち、ようやく手繰り寄せ、目の前に引き上げた。
 首筋に鈍い痛みが走る。
 頭をゆっくりと正面に戻した。
「それと、昨日の、例の話だが⋯⋯」アーノルドは一瞬、どのように表現すべきか迷った。「協会は把握していない。たぶん、理事会の独断だ」
「わたしに呪いをかけたことが、ですか?」
「聖戦を吹っかけること自体が、だ」
 エルは僅かに目を見開いた。睫毛が上向きに持ち上がるのがここからでも見えた。
「あの説明の場にいた人間は全部で八人。内、五人が死んでひとりが生死不明ってこたあ、今、あの話を知っているのは⋯⋯」
「わたしと、兄さんだけ?」
「そういうことになるんだろうな」
「本当ですか?」エルはすぐにその目を細め、此方を睨んだ。「こんな大事なこと⋯⋯、本当は他にも知っている方がいて、でも、たまたま、ここにはいっしょに来なかっただけなのではないのですか?」
「副支部長も秘匿会の調査員も知らなかった」
「知らないふりをしているのでは?」
「知らないふりをするメリットがどこにある? 制裁を実行するにしても、少なくとも協会の上層部には共有されてるはずだろ。こんなでかい決定、有色者会にも話が来ないなんてまず有り得ねえよ。大体、爺五人でこそこそ対処できる程度の組織なら、とっくの昔に壊滅してるっつうの」
「でも、銀卿はご存じだったわ」
 エルの指摘に、アーノルドは鼻から息を漏らした。
 あの男がなんらかの事情を知っていたところでたいした驚きはない。ああ、やっぱりか、と思う程度だ。ヒューゴー・ダルシアクという人間の在り方を少しでも知っていれば、誰でもそう思うだろう。だが、これが、妹が言うところの勝手な信頼であることも理解している。
「瞬間移動してる時点でお察しだろ」アーノルドはそれだけ言った。
「それは、そうですけど⋯⋯」
「だからまあ、聖戦について知ってるのは、俺とお前と、一応ヒューゴーの三人ってことになる。ヒューゴーに拉致られてったあの男が生きてるなら、これで四人。ああ、あと⋯⋯、もしかしたら、ヒューゴーの妹もか」
「妹?」
「いんだよ、あれにも。たしか、お前のふたつほど年上だったか⋯⋯、見りゃ一発でわかる」
「似ているのですか?」
「似てる? ああ⋯⋯、いやまあ外見はそりゃ似てんだが⋯⋯」
「どういうことですか?」
「べつに今どうでもいいだろ、そんな話」アーノルドは顔を顰めた。「それより⋯⋯、問題は聖戦のほうだ。お前に今かけられてるっていう呪いが本物だとして、このままじゃ、組織を潰すために⋯⋯、というより、イヴとかいう奴を殺すために、いずれ俺がお前を殺すことになる。だが、イヴってのが完成する前に、組織を潰して、イヴの誕生を阻止すれば、お前の呪いも発動せずに済む⋯⋯、ってことらしい。けど、組織の本拠地や実体を把握していたと思われる人間は全員ヒューゴーに殺されちまったからな。情報の手に入れようがない」
「でも、予定どおり、兄さんがわたしを殺したとして、なぜそれがイヴを殺すことに繋がるのでしょうか」エルは妙に淡々と訊ねた。「わたしが果実で、兄さんが蛇だと、理事長はおっしゃっていましたけれど⋯⋯、それってつまり、殺したわたしをイヴに食べさせる必要がある、ということですか?」
「さあな」アーノルドは低く唸る。
「でも、兄さんにできることはかぎられているのでは?」エルが言った。「少なくとも、銀卿は聖戦についてご存じだったわ。だったら⋯⋯、わたしは銀卿のことをよく知りませんが、とにかく、どうにかして卿から情報を引き出すのが、いちばん現実的で、可能性が高いと思います。正直⋯⋯、卿のことは、兄さんの邪魔をする意図があってあんなことをしたようにしか、わたしには思えませんけれど」
「ちょっと待て」
 アーノルドは正面の妹を僅かに睨む。
 鮮烈に赤い目が、アーノルドを見つめ返した。
「なんですか?」
「お前、今の自分の状況、わかってんのか?」
 エルはアーノルドを見つめたまま静かに顎を引き、唇を引き結ぶ。
「今のままじゃお前、俺に殺されて死ぬんだぞ」
「わかっています」
「わかってんなら、」
「わかっています」彼女は同じ言葉を繰り返した。二度目は、先ほどよりも強く大きな声だった。「自分にかけられている呪いがどのような呪いかは、わたしがいちばんよく、わかっています」
 アーノルドは数秒間、妹の目を見た。
 深い赤色の双眸も、アーノルドから目を逸らすまいと此方を捉えている。
「そうかよ」先に目を逸らしたのはアーノルドだった。
「はい」
「なあ。念のため訊くが、解呪はできそうにはねえのか」
「無理です」妹の声。「わたしの力では⋯⋯、とても」
 アーノルドは、彼女の耳には届かないよう注意して、息を吐き出す。
 肩の力が沈むように抜けた。
「そうか」
 妹に扱えない呪い。
 その確認だけで、充分に絶望的だった。
 静寂。
「でも、解呪する必要がありますか?」
 アーノルドはその言葉に、一瞬、すべての動きを停止させた。
 妹を見る。
 妹は変わらず、目の前に姿勢よく腰かけている。
 不自然なほど平静な姿。
「なに?」思いのほか低い声が、自身の口から出た。
「だって、もう聖戦は始まってしまっているのでしょう? それに今、兄さんが持っている最大の情報は、わたしにかけられたこの呪いだけです。どのみち、組織を今すぐにでも排除しなければならないのなら、兄さんがすべきことは、この呪いを利用することなのではないですか?」
「お前、」
「この呪いを解除することは、兄さんにとっても、この聖戦にとっても、自殺行為でしかありません。そもそも、聖戦の相手も、この呪いも、兄さんひとりでどうにかできるものではないわ。ならば、兄さんがなすべきことは、呪いを解くことではなく、わたしという切り札を利用するためにも、呪いが無駄撃ちにならないよう、組織の情報を集めることではないですか?」
「ちょっと待て、」
「ですから、やはり呪いが発動する前に、組織の情報を集める必要があると思います。わたしが死ぬことで自動的にイヴも道連れになる、という呪いならまだいいですけれど、わたしの死を無駄にしないようにしてくださるなら⋯⋯」
 低く鈍い打撃音。
 机の位置が数ミリずれる。
 気がつけば、自分の靴先が机の足を乱暴に蹴り飛ばしていた。
 エルが口を閉じる。
「ちょっと黙ってろ。言っていいことと悪いことの区別もついてねえのか」
 妹はなにも答えない。
 瞬間的に沸き上がったアーノルドの苛立ちは、しかし、妹のその様子を見てか既に勢いを失いつつあった。
「もういい」アーノルドソファから立ち上がった。「部屋に戻れ。話は終わりだ」