第一章

     7

 ヨルゴスの丁寧すぎる挨拶を受けながら、通信装置の蓋を閉じる。蓋にはヒューゴーの名が刻まれている。しくみ上、この通信装置は、ひとりひとり個別に用意する必要がある。
 だが、表立ってこの連絡手段を使用することはまずない。たとえば、アーノルドの両親もまた協会の会員であり、このしくみで連絡を取り合うこと自体はできる。しかし、彼らの周りに誰がいるかわからない状況で遠く離れた地から声を届けるわけにはいかない。この特異な力は徹底的に秘匿されなければならないためだ。
 一方で、ヒューゴーの場合は、基本的に外界との関わりがない男である。彼の傍にいるのは、彼の妹と悪魔しかいない。彼らは森の奥深くにあるダルシアク邸にいるか、協会に姿を見せているかの二択である。そのため、ヒューゴーは鉱石をピアスに成形し、妹のクロエと連絡を取れるように小型化して普段から使用している、らしい。
 アーノルドは二秒、目を閉じた。
 それから、馴染みの宝石店に注文依頼の手紙を書き、部屋を出る。至急届けるようにと使用人に手紙を渡してから、妹の部屋を訪ねた。妹の部屋の前に立ったのは、ほとんど初めてのことだったかもしれない。
 ノックをする。数秒後、部屋の扉を開けて顔を見せたのは、妹の侍女だった。淑女というよりはほぼ家庭教師然とした、自分よりも一回り近く年上の女性である。
「妹と少し話がしたい。今大丈夫か?」
「少々お待ちください」侍女が扉を閉める。微かな話し声。また、扉が開いた。「お話し合いはどちらで?」
「研究室だ。急がなくてもいい、と伝えてくれ」
「かしこまりました」
「先に行ってる」アーノルドは片手を挙げてみせ、先にひとりで研究室へと向かった。
 階段を下り、少し奥まった場所にある部屋に入室する。この部屋は、実質、アーノルドの書斎だった。だが、アーノルドの父であり、この家の当主が持つ書斎と区別するため、この部屋は研究室と呼ばれている。
 窓のカーテンを開けてから、暖炉傍のコンパクトなソファに腰かける。少々手狭な部屋だが、アーノルドはこの空間が気に入っていた。壁のほとんどは重く聳え立った棚で隠れており、実験器具や大小さまざまな天文機器、そして似た背表紙の書籍や文献でぎっしりと詰まっている。アーノルドは正面の本棚を下から上へ辿りながら、さらに天井を見上げた。自分の頭上には控えめなシャンデリアがぶら下がっている。
 アーノルドはポケットから拳銃型の発火装置を取り出すと、引き金を引いた。拳銃上部の小さな蓋が開く。
 中で揺らめいた小さな火を見ながら息を薄く吸い込み、そのままもう一度天井を見上げて、短く息を吹き出した。すぐに、小さく燃える低い音。シャンデリアに並べられた蝋燭に、一斉に火が灯る。
 ドアがノックされた。
 返事をすると、ドアが開き、妹が姿を見せる。向かい側のソファを顎で指し示すと、彼女は無言でソファに腰かけた。
 妹の侍女が紅茶を用意し始める。
 妹は、ふと、天井を見上げた。それから、正面のアーノルドを見る。
「なぜ火を点けたのですか?」妹の細い眉が微かに寄せられていた。
「あ?」
「シャンデリアです」エルが控えめに天井を見上げた。
「ああ⋯⋯」アーノルドは部屋の奥の、先ほど自分でカーテンを開けたばかりの窓を横目で見る。まだ外は比較的明るい。「ただの癖だ」
 片手に持ったままだった拳銃の蓋をもう一度開け、すぐに引き金から指を離す。蓋が閉まると、シャンデリアの蝋燭の火も消えた。辺りに、燃えた煙の微かな匂いが漂う。
「蓋の開閉で操作しているのですか?」
「違う」
 しかし、結局、その後言葉を続けることはなかった。説明の道筋や文章を二、三パターンほど頭の中で考えたが、どれも不充分に思われた。互いに消化不良に終わるだろう、と渋り、結局、口を開き損ねたことを良しとする。
 ふたりの前に紅茶を準備し、侍女が退室する。
 先に動いたのはエルだった。
 彼女はカップとソーサーを持ち上げると、紅茶に口をつける。妹がカップから口を離すまで、アーノルドは自分の妹を眺めていた。
 長い金髪の上半分を、今日はうしろで緩く束ねて下ろしている。細く長い金髪が緩やかに波打ちながら背中に流されていた。光を軟らかく受けた彼女の髪は、産毛のような白い光に包まれて発光している。自分と年が離れていることもあるが、ひとりの女性というよりはビスクドールのようなものに近い。しかし、伏し目がちの目もとに落ちた睫毛の影が、彼女の幼さと少女性、そして、女性の境界線を曖昧にしている。
 彼女がカップをデスクに戻した。
「とりあえず、だが⋯⋯」そのタイミングを見計らって、アーノルドはゆっくりと口を開く。「協会の捜査は終了したらしい。事件の公表自体が無しだ。理事会の面子をしれっと総すげ替えして、内々に処理して終わりだろうな」
「ええ」
「まあ、当然っちゃ当然だが⋯⋯。あの様子じゃ、お前や使用人たちが聴取されることはなさそうだな」
「そうですか」
「それと、一応、今日中には応接室が片付く予定だ」
 そこで、エルがアーノルドと目を合わせた。見慣れない、強烈な赤い瞳がアーノルドをじっと見つめている。
「なんだ」その視線を受けて、アーノルドは目を細める。「言いたいことがあるならはっきり言え」
「応接室を片付ける、というのは⋯⋯」エルが口を開いた。「まさかとは思いますけれど、銀卿が?」
「来るのは悪魔だけどな。ヒューゴーは旅行中だとよ」
「旅行?」エルが眉を不審げに持ち上げる。
「まあとにかくだ、あのヒューゴーが元通りにするっつったんだから⋯⋯」
「どうして銀卿のお言葉を信じられるのですか?」
「なに?」唐突な妹の問いかけに、アーノルドは顔を顰める。「信じる?」
「正直に言って、異常です」エルの声が硬く張り詰めたのがわかった。「銀卿だって、兄さんに訊ねていたじゃない。どうして平気なんだって⋯⋯」
「だから、平気じゃねえっつってんだろうが。それに、そもそもあいつのことなんか信じても許してもねえよ。いきなり来たと思ったら家中血浸しにされて、怒らねえわけねえだろ」
「ですが⋯⋯」
「だけど、昨日も言ったろ。あの男があんなことしでかすってんだ。相当腹に据えかねたなんかがあったんだろ」
「それが異常だと言っているんです」エルの声量が一段階引き上げられた。「大体、その判断も、兄さんのその言い分も、全部、兄さんの、銀卿への勝手な信頼の上にしか成り立っていないものでしかないわ。兄さんにとってはどうだか知りませんが、そんなもの、わたしにとってはなにひとつ理由にも、納得にもなりはしません」
 アーノルドはソファに座ったまま、彼女をただ見つめていた。驚いたといってもいい。
 そもそも、妹とふたりきりで会話をした記憶がアーノルドにはない。彼女と顔を合わせる機会自体は毎日あるものの、その機会のうちのほとんどが食事の時間である。特段自分たちの間に会話はなく、共通の話題もない。
 アーノルドから業務的な連絡のために声をかけることはあっても、彼女はいつも、硬い声で最低限の返事をするだけだ。いくら実の兄とはいえ、年の離れた男、それも、お世辞にも物腰やわらかな態度とは言えない自覚がある。妹の、僅かな怯えの混じったぎこちない態度も当然だろう、という程度の認識であり、それが彼女の性質なのだろう、と考えていた。
 しかし、どうやら、その評価は修正しなければならないらしい。
「なんです?」エルの形の良い眉が寄せられた。「兄さんが仰ったんでしょう。言いたいことがあるなら言えと」
「そりゃそうだが⋯⋯」
 そのとき、初めて、アーノルドは目の前に座る人間が、たしかに自分の妹であることを実感した。