第一章

     4

 翌日、アーノルドは協会支部を訪ねていた。
 〈秩序の隠れ家〉と呼ばれる協会の支部にあたるこの建物は、隠れ家の名のとおり、周囲に溶け込む小ぢんまりとした教会だった。明るい芝生と木々の緑が印象的な、素朴な空気感の中に佇んでいる。
 玄関を開けて建物の中に入ると、受付に立っていた修道士の男性がアーノルドに気づき、頭を下げた。アーノルドも、帽子を脱いでそれに応える。
 エントランス正面の大きな扉は開け放たれており、中の聖堂を見ることができた。外界の牧歌的な雰囲気に対して、聖堂の空間は静謐な影に濡れている。奥に広がるアーチ型の天井は、外見から想像するよりもずっと高い。扉を境に、まるで別の空間に繋がっているようだった。
 アーノルドはそんな聖堂を横目に、エントランスホールを右に曲がって進むと事務室の扉を開けた。
 閑散とした無機質な事務室では、二、三人の修道士が仕事をしていた。アーノルドの登場に驚いた様子はない。彼らの動きは、慎重に装われた平常の速度を保っている。アーノルドはできるだけ息を潜めて歩き、部屋の奥まで進んだ。また無骨な扉があった。扉を開けると、正面はすぐ行き止まり。正方形の暗い空間で、正面と右手はただの壁。左手には、壁に埋め込まれた扉があり、その傍では二階に続く階段が伸びている。
 アーノルドは階段脇の扉を開け、その中へ入った。
 予備室と呼ばれるこの部屋は倉庫である。しかし、物は置かれておらず、四方を壁に囲まれている。窓はない。閉塞的な部屋だった。
 部屋の中央に立ち、床を見る。
 装飾のない大ぶりな正方形のタイルが並んでいる。
 目を閉じた。
 息を吐き出す。
 瞼を持ち上げた。
「【開けろ】」
 すぐに、連結した床のタイルがひとりでに持ち上がる。跳ね上げ式の扉だった。
 正方形にくり抜かれた床の下に、螺旋状の階段が続いている。
 アーノルドは階段を降り、地下へ向かった。途中、背後で床の扉が閉まる音がしたが、中は思いのほか明るい。
 階段が終わる。
 地下室の床に足をつけ、天井を見上げる。柱が狭い間隔で連立し、アーチ型の高い天井を支えている。頭上には、質素なシャンデリアが柱の数に負けじといたるところに吊るされており、蝋燭の炎が絶えず光となって揺れていた。肖像画の一枚やシンボル的なあしらいのひとつもない剥き出しの空間であること以外は、地上の聖堂とよく似た雰囲気で、地下であることを意識し続けるのが難しい。
 地下空間は縦に長く、中央が比較的幅の広い通り道になっていた。両脇の側廊部分は柱や仕切りで区分けされており、テーブルや椅子が並べられている。何人かが仕事をしているようだった。彼らはアーノルドの姿を認めると、軽く頭を下げて礼を取る。それに応えながらアーノルドは中央の通り道を奥へ進み、突き当たりのドアをノックして開けた。
 祭壇のちょうど真下に位置するこの空間は、円形のホールになっている。明るい部屋だった。部屋の中央には大きな丸いテーブルがあり、椅子が等間隔に配置されている。
 男性がふたり、同時に立ち上がる。
「ああ、これはこれは、どうも、ご足労をおかけし申し訳ありません、金卿⋯⋯」先に口を開いたのは、副支部長だった。それから、アーノルドに入室を促す。
 アーノルドは男たちの対角線上の椅子に腰かけた。彼らも、再び椅子に腰を下ろす。
「どうも、本日は、お呼び立てしまして、まことに申し訳ありませんでした」副支部長が言葉を続けた。常に片手にハンカチを持っているのか、何度も忙しなく額に押し当てている。「なにせ突然のことでしたから、此方ももうなにをどうしたものかと⋯⋯、ああ、いえ、それよりもですね、このたびは貴重なお時間をいただきまして⋯⋯」
「いえ、かまいません」アーノルドはできるだけ抑制した声で言った。「どうぞ、本題を」
「ええ、そうですね、では、たいへん恐れながら、本題に⋯⋯」副支部長が頷く。
「では、私から失礼いたします」もうひとりの男が口を開いた。外見や声の張りは副支部長よりもずっと若い。「単刀直入に申し上げますと、先日の、銀卿による理事五名殺害の件についてお訊ねしたいことがあります。まず、事実確認からおこないますと、事件当日の朝、卿の邸宅に代表理事を含めた理事が五名、それから、会員の男一名の訪問があり、応接室で対応中のところ、銀卿が現れ、五名を殺害⋯⋯、また、会員のひとりが銀卿によって拉致され、その後消息は不明⋯⋯」男はそこで一度言葉を切った。それから、アーノルドと目を合わせる。「いかがでしょうか?」
「そのとおりです」
「卿は、現場を目撃されていましたね?」
「はい」
「応接室にいらっしゃった?」
「そうです」
「殺害は、間違いなく銀卿の手によるものと証言された、ということでよろしいでしょうか?」
「はい」アーノルドは頷いた。「ヒューゴー・ダルシアクです。間違いありません」
「お認めになられるのですね?」
「先ほどからそうだ、と申し上げています」アーノルドは僅かに寄せていた眉を持ち上げた。「なにか問題が?」
「いえ、そのような⋯⋯」男は頭を横に振った。「では、その、なにか、お心当たりはございますか?」
「心当たり?」
「ええ、たとえば、銀卿がそのような行動に出られた理由と申しますか、或いは、なにかできごとなど⋯⋯」
「まさか」不機嫌な自分の声。「此方が聞きたいくらいです」
「銀卿は、なにか仰っていましたか?」
「さあ⋯⋯、腹いせのようなものだとは口にしていましたが」
「腹いせ⋯⋯、ですか?」
「もちろん此方も真意を確認しましたが、まともに答えを寄越す男ではありませんので」
「はい、それは、その⋯⋯」男は曖昧に何度か頷いた。
 彼は、事件当日である昨日の午後、捜査のために屋敷を訪ねてきた男のひとりだった。協会本部から各支部に配属される、秘匿会の調査員だと名乗っていた。
 もう数日は現場保存のために応接室をあのままにしておかなければならないだろう、とアーノルドは覚悟していたのだが、実際はアーノルドの予想よりも遥かに手早く、遺体は昨日のうちに外に運び出された。
「ところで、差し支えなければ、なのですが⋯⋯」副支部長の言葉に、アーノルドはそちらと目を合わせる。「理事会の皆さまは、そもそも⋯⋯、どのようなご用件で卿のお屋敷に?」
「は?」
「あ、いえ、もちろん、差し支えなければ⋯⋯」
 アーノルドは反射的に口を開きかけたが、直前で思いとどまった。
 そうだ。
 そもそも⋯⋯、この話はどこまで伝わっている?
 異端組織の制裁。
 聖戦。
 その切り札として、呪いをかけられた妹の存在⋯⋯。
 知らないふりをしているのか、と一瞬過ぎった可能性は、すぐに否定される。
 目の前の彼らには、知らないふりをする意味がない。
 問題の組織を制裁し、できるだけ早く壊滅させなければならない、という目的を達成したいのであれば、尚更。
 副支部長は評議会のメンバ。調査員の男は、本部の人間である。
 どちらも知らない、ということは、まず有り得ない。
 有り得ない、はずなのだが。
「初めに申し上げておきますが⋯⋯」アーノルドは探りを入れるために、慎重に言葉を選びながら口を開く。「私は、ヒューゴー・ダルシアクの所業とそちらの所業、そこに大した違いも差もない、と考えています。しかし、今さら過ぎたことを嘆いても時間の無駄でしょう。ですから、ひとまず、情報をすべて寄越せと申し上げているのです。でなければ、私は動くこともできません。それこそ、時間の無駄です」
「情報、というのは?」
 その返答に、アーノルドは唇を嚙み、片目を細めて円形の机を見た。
 最悪だ。
 協会の実質的なトップ。それが理事会だ。その理事会の全員が本部を離れ、五人揃ってアーノルドを直々に訪ねてきた時点で、恐ろしく嫌な予感はしていた。
 妹に呪いをかけたのは⋯⋯、
 やはり、協会の意向ではない。
 理事会の、独断だったのだ。
 だから、彼らはわざわざ、直接、アーノルドを訪ねた。
「いえ⋯⋯」アーノルドは静かに答えた。「失礼。私の勘違いだったようです」
 部屋は、重苦しい沈黙に包まれていた。