第一章

     3

 クロエ・ダルシアクが目を開けると、目の前に兄が立っていた。自分も立っている。部屋の中。空き部屋だった。どこの部屋か、思い出すのに時間がかかった。
 明るい鳥の鳴き声。
 朝の、白い日差しの温度。
 明るい日差しが滲むように差し込んでいる。空中に停滞した埃が白く光っていた。
 正面に立つ兄は俯いており、表情はわからない。
 クロエは、自分の手を見た。いつもどおり、黒い革手袋。
 胸もとに触れる。
 服を握り締めた。
 長い長い⋯⋯、悪夢を見ていた。
 悪い夢を思い出すにつれ、自らの鼓動が否が応でも速度を増していく。
 吐き出した細い息が、震えていた。
 突如、
 兄が顔を上げる。
 青い目が、自分を貫いて捉える。
 目を離すこともできず、自分も、ただ兄を見上げた。
 神さまを見上げるように。
 ああ⋯⋯、
 つまり、
 此処が天国だろうか?
「兄様、」
 喉に唾が引っかかった。随分と久しぶりに声を出した気がする。
 兄の顔に表情はない。
 クロエの呼びかけに、表情を変えることもない。
 兄は呼びかけには答えず、その代わり、腰のあたりから短剣を取り出した。
 そして、
 まるで雑草でも刈り取るような仕草で、腕に剣を刺し、刃を引く。
 音になり損ねた悲鳴が、クロエの喉の奥から零れた。
 兄は僅かに眉を動かしただけ。
 すぐに、赤い血が溢れ出る。
「なにを、」
 クロエの言葉を遮るように、兄は肘を曲げ、腕の切り口をクロエの口に押し当てた。
 もう片方の手は、クロエの肩を固定している。
「口を開け」兄の低い声。
 腕を強く押し当てられたまま、クロエは咄嗟に首を横に振った。
 中途半端に開く口を覆う、自分のものではない、肉体の感触。
 閉塞感。
 鉄の匂いがする。
 口の中に、血が滲み、流れ込む。
 血の味がした。
 兄の、血の味。
「頼む」
 また、クロエは首を横に振る。
 生理的な涙が目を覆いつつあった。
「飲んでくれ」
 なにを?
 まさか、
 兄の血を?
 息が苦しい。
 兄の青い目が、
 恐ろしいほど神秘的な色を湛えた両目が、クロエを見ている。
 耐えきれず、気がつけば、既に嚥下してしまっている。
 自分の喉の動きが兄に伝わるのが、とんでもない罪のように思われた。
 血の匂い。
 自分の躰が発熱していた。
 熱で、躰が微震している。
 目が霞む。
 瞼が重い。
 兄の腕が離れた。
 立つこともできず、その場に崩れ落ちかけて、
 兄の手が自分の躰を支えた感触が、最後。
 また、目を開ける。
 昏い天蓋。
 ベッドで眠っていた。
 躰を起こす。シーツの感触が嫌に現実的で、すぐにベッドについていた手を離す。
 自分の手を見た。
 今は、素肌。
 服は変わっていない。
 天蓋のカーテンを開け、ベッドから足を下ろす。傍に靴が並べて置かれていた。ベッド脇の小さなテーブルの上に、革手袋も並べて置かれている。
 靴を履き、ベッドから立ち上がろうとした。しかし、うまく力が入らない。咄嗟にもう一度ベッドに腰かける。
 どこまでが夢だったのだろう。
 それとも、
 今もまだ、本当は、夢の中なのではないか⋯⋯。
 けれど、そんな逃避を嘲笑うかのように、鉄の味が口の中から鼻腔を通り抜けていった。
 ベッドのシーツを握り締める。
 部屋の扉が開いた。
 そちらに顔を向ける。
「お嬢様⋯⋯」扉を開けた老人と目が合った。「お目覚めでございましたか」
 老人は扉を閉めると、此方に近づいてきた。執事という概念をそのまま実体化したかのような出で立ちの老人だが、この屋敷にいる人間は兄とクロエのふたりだけ。この老人は、兄が使役する悪魔のひとりなのだ。
「ヨルゴス様」もう一度立ち上がろうとしたが、また失敗した。「いったい、なにが⋯⋯」
「ご無理なさいませんよう⋯⋯」クロエの背を軽く支えながら老人が言った。「もうしばらく横になられたほうが⋯⋯」
「兄様は?」
「書斎に」老人は少し頭を下げ、声を潜める。「今に此方においでに⋯⋯。ですからお嬢様、どうかお躰を⋯⋯」
「いえ。私が伺います」
「しかし⋯⋯」
「あの、手袋を⋯⋯」
 老人は一瞬の逡巡ののち、微かに頷くと、テーブルの上に置かれていた革手袋をクロエに渡した。クロエが手袋を身につけたことを確認して、老人が手を差し出す。
 クロエはその手を支えにしてベッドから立ち上がり、自室を出た。
 廊下を歩き、兄の書斎の前に立つ。老人がノックをした。扉越しの返事を受けて、老人が書斎の扉を開ける。
 書斎のデスク。
 その椅子に兄は深く腰かけていた。肘かけに肘を乗せて両手を組み、目を瞑っている。
 自分の濁った灰色とはほど遠い、艶やかな銀髪。目もとの影。鼻梁。均整の取れた唇。僅かな顔の傾き。いつも、どのような姿であっても、そのまま作品になってしまうのではないか、と思わせる引力が兄にはあった。
 クロエが書斎の中に一歩進むと、兄の目が音もなく開かれ、此方を見る。
「クロエ」兄はそう呼びかけながら立ち上がる。「体調はどうだ」
「少し躰がふらつきはしますが、問題は⋯⋯」
 すぐうしろの扉が静かに閉められた。老人が部屋を出て、扉を閉めたらしい。
 ヒューゴーがクロエの前に立ち、クロエの躰を支えるために腕をまわしかけたが、その手はクロエに触れる直前で停止した。
 クロエは目の前の兄を見上げる。
「シャルロット」兄が静かに、クロエを呼んだ。
 兄だけが呼ぶ、クロエの長い名のうちのひとつ。
 昔、自分が兄にだけ名乗った名前。
「触れても、良いか」
 懐かしい問いかけだった。今はもう、懐かしい、と感じることができる。手を伸ばされるたびに泣くことも、怯えることも、今はない。
 手袋をつけなければ良かった、と思う。
 そうすれば、兄にこのような問いかけをさせずに済んでいたかもしれない。
 クロエは頷いた。
 兄の手が、クロエの背にまわされる。
 添えるような触れ方。
 書斎のソファまで歩き、兄の支えを借りてソファの中央に座る。兄はソファには座らず、自分の目の前に片膝をついた。
 下から覗き込むような兄の角度は、ひどく珍しい。
 兄の片手を握る。
 革の手袋同士の接触。ごわついた擦れた音。
 温度は届かない。
 それが、どこか、寂しい。
「どうして、部屋にいてくださらなかったのですか」
 ヒューゴーがひとつ、瞬く。彼の目は軽く見開かれていた。自分が兄の言葉を待たずに口を開いたことに対してか、それとも、その言葉の声音に驚いたのかは、クロエにはわからない。
「すまない」ヒューゴーはすぐに口もとに弱く笑みを浮かべると、目を軟らかく細めた。「ただ⋯⋯、お前が俺を恐れるのではないか、と」
 クロエは首を横に振った。有り得ない、と言い切ることができない自分を否定するための仕草だったかもしれない。けれど自分は、今の自分が兄による細心の注意と徹底的な配慮によって保たれていることを知っている。だからこそ、無責任に「恐れたりなどしない」と口にすることはできなかった。
 鼻の奥に、溢れるような熱が集まった。
 すぐに、涙が零れる。
 熱い水滴が、未練もなく落ちる。
 認めたく、なかった。
 もしかしたら、
 もう、後戻りはできないのではないか、などと。
 なにが起こっている?
 私ではない。
 では⋯⋯、
 兄は、なにをした?
「シャルロット」
 兄が立ち上がりながら、此方に手を伸ばす。
 次の瞬間には、兄の腕の中。
 温かい。
 生きている。
 生きている、温度。
 涙が溢れて止まらなかった。
 夢ではない。
 天国でもない。
 此処は、現実だと、
 知らしめるような温度。
 感触。
 圧力。
 匂い。
 此処が、夢ではないのならば⋯⋯、
 このまま抱き締めて、この躰を潰してほしい、と思った。
 それくらい、
 強く、強く、抱き締めてほしかった。 
「すまない」兄が言った。なにに対する謝罪かは、ついぞわからなかった。