第一章

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「目的?」ヒューゴーは喉の奥で小さく笑ったらしい。「さて。どれのことだか」
「しらばっくれてんじゃねえぞ。五人も殺した理由に決まってんだろうが」
 アーノルドはそう答えながら横目で床を見る。室内は血の海と呼ぶに相応しい有様だった。そんな夥しい血の海の中に、老人たちの頭と躰が倒れている。痛ましい、という感情すら抱けないほど、それはあまりにも現実離れした景色だった。できるだけ鼻から息を吸わないよう、慎重に呼吸をするが、それでも口の中から入り込んでくる空気の匂いに、今にも胃液が迫り上がりそうになる。
 アーノルドは一旦、血溜まりの中の胴体や頭の断面について考えることを放棄した。そうでもしなければ、少しでも気を抜いた途端にあられもなく嘔吐えずくだろう、という確信があった。
 アーノルドはゆっくりと息を吐き出し、ヒューゴーを正面に捉え直す。
「おい。なんで五人を手にかけたか訊いてんだ。その質問にまずは答えろ」
「さてな」
「あ?」
「強いて言えば、腹いせのようなものか」
「腹いせ?」アーノルドは目を見開いた。
「多少は気が晴れるかと思ったが⋯⋯」そこで、男は白けたように短く鼻息をもらす。「大して意味はなかったな」
「ふざけんなよ」アーノルドは唇の端を嚙む。「お前、自分がなにしたかわかってんのか?」
「なにをしたか、だと? それがどうした。この俺が、今さらもうひとりやふたり手にかけたところでなにが変わる? 所詮、初めから数えてすらおらんのだ」
「これは、俺に対する嫌がらせか?」アーノルドはヒューゴーを睨んだ。
「俺の行動は、お前に影響を与えることを目的とはしていない」
「俺たちがどうなろうが知ったこっちゃないって?」
「まあ、極端な言い方をすればそうなるだろうが⋯⋯」ヒューゴーは目を閉じる。「だが、生命活動とは常に、結局のところ、すべてそこに行き着くものだ。利他的な動力などひとつもあるまいよ」
「俺の邪魔が目的か?」
 ヒューゴーが目を開けた。
 三秒間の静止。
「お前の目的にもよる」
「俺の?」
「いや⋯⋯」ヒューゴーは微かに笑ったようだ。
「お前、なにを知ってる?」
 アーノルドの問いに、男は目を細める。
 その反応で、確信した。
「知ってんだな」アーノルドは舌を打つ。
「お前が言っているのは⋯⋯」ヒューゴーは、平時よりゆっくりと声を発した。「聖戦、とやらについてか?」
「わかった」アーノルドは一段階低い声を出す。そして、右手の拳銃を持ち上げ、挑発のように銃身の先を素早く揺らした。「知ってること全部吐け」
「悪いが、少なくとも今はこれ以上の関与をするつもりはない。どのような手を打つべきか、いまだ図りあぐねているものでな」
 予想と異なった答えに、アーノルドは用意していた恨み節のやり場を失った。はぐらかされるものだとばかり思っていたが、男の回答はアーノルドの予想以上に説明の意思が伺える答えだった。
「最善手を導くには、今の俺ではいささか理性を欠いている自覚がある」ヒューゴーはそう続けた。
「へえ⋯⋯」
「なんだ」
「珍しいこともあったもんだな、と思っただけだ」
「随分と過大に評価してくれる」男が軽く笑った。「質問は以上か?」
「は? いやちょっと待て、お前、まさかこのまんま放置してくつもりか?」アーノルドは応接室の惨状の方向を指差した。「人ん家に死体と血をぶちまけるだけぶちまけて帰るって? 正気か?」
「今、この俺に面と向かって正気かどうか、などと訊ねてみせるお前のほうがその表現に相応しいと思うがな」男が小さく肩を竦める。「まあいい。その件については、後日、清掃に人手を寄越してやる」
「ああそりゃどうも⋯⋯」アーノルドは拳銃をポケットにしまった。「悪魔ってのは清掃業者かなんかかよ」
「なぜ、お前はそうも平然としている?」
「は?」アーノルドは目を瞬かせた。「なんて?」
 男の青い瞳とかち合う。
 大きな窓から差し込む朝の白い光に照らされたその男の姿は、まるで崇高な沈黙の中央に佇む彫像か、神話のようにも見えた。この部屋の惨状と男の全身を濡らす血、そして、つい先ほどその手が数人の命に容易く手をかけたという事実すらも霞むほど、それは強烈な印象だった。
「怯えるなり、驚くなり、嫌悪を示すなり、俺の今しがたのおこないには思うものがあるだろう」男は強い影の中で、青い目をさらに細める。「次はお前の番だ、とは思わないのか?」
「ああ⋯⋯」不意に、アーノルドは思いきり舌を出して見せてやりたい衝動に駆られた。
 なんとも滑稽な質問だ。
 自分の口角が腹立たしく斜めに持ち上がっていることを自覚する。
「そうだな。てめえが気まぐれとか快楽とか、そんな理由でなんの意味もなく動くような奴ならな」
「そうか」男は、ひどく簡単に頷いた。「ああ⋯⋯、それと、レディ」
「はい」少女が答える。
「そこの兄に八つ当たりでもするといい」
「え?」アーノルドのうしろで、少女が顔を持ち上げた気配がした。
「そこそこ頑丈な男だ」男が言う。
「ええ⋯⋯」
 少女の返答に、男が頷く。
 瞬き。
 肌を撫でる空気。
 次の瞬間には、男の姿はこの部屋のどこにもなかった。
 嵐のような男が去ると、部屋は途端に静まり返った。大気は一瞬にして震え方を忘れてしまったらしい。
 アーノルドは、ようやく肩の力を抜いた。
 応接室を出る。
 廊下にいた使用人が数人、アーノルドたちの姿を捉えた途端に駆け寄ってくる。ヒューゴー・ダルシアクは既にいないことをアーノルドが伝えると、彼らは抑えた息を静かに吐き出した。
 今後の対応の指示や協会への連絡を手配したアーノルドは、妹を連れてその場を離れる。屋敷の廊下を歩くが、不自然なほど誰ともすれ違うことがない。屋敷の中は、異様に静かだった。
 今、この世界に生きているのは自分たちだけかもしれない、とアーノルドは幻想する。
 廊下の角を曲がって直進する。
 軽い音。
 振り返る。
 うしろで、妹が廊下に座り込んでいた。片手で口を覆って俯いている。長い金髪が彼女の表情を覆い隠すように垂れ下がっていたが、その隙間から、妹の震えた微かな吐息が聞こえた。
「大丈夫か」と声をかけようとして、しかし直前で思いとどまる。
「おい。立てるか」その代わりに、アーノルドは彼女の傍にしゃがみながらそう訊ねた。「部屋に戻るまでの辛抱だ。俺の腕でも掴んで⋯⋯」
「兄さん」久しぶりに妹の声を聞いた気がする。「なんで、こんな⋯⋯」
「俺が担いだほうが早いか?」
「どうして?」譫言のように彼女が呟く。「さっきまで、生きていたのに⋯⋯」
「エル、あんま考えるな。で、どうする? 担ぐか?」
「どうして、平気なの?」彼女が顔を上げた。赤い目に、薄く水の膜が張っている。少し乱れた前髪。震える唇が、口もとを覆う手の隙間から見えた。
「平気なわけねえだろ」
「嘘よ!」
「あの男があんだけのことしでかしたんだ。それ相応の理由はある。そう納得するしかない。それだけだ」
 蹲る彼女の背中に手を添える。
「自分で歩きます」
 彼女の硬い声に、アーノルドは返事をする代わりに妹を立たせ、彼女が歩き出すのを待った。
 俯いた妹の頭を見下ろす。
 小さな頭だ、と思った。
 やがて彼女は、自身の足もとを見下ろしながら歩き始めた。アーノルドを見上げることは一度もない。
 アーノルドは妹の速度に合わせて歩いた。もどかしいほど頼りない歩幅だった。