プロローグ

 
 瞼を開くと、目の前に銀髪碧眼の男が立っていた。
 周囲は、見渡すかぎりの草原。闇に呑まれた空には星が小さく瞬いていたが、男の銀髪が放つ輝きの前では些末な光に思われた。
「待っていたぞ、ミスタ」男の朗々とした低い声が俺を呼ぶ。
「お前が勝手に連れて来たんだろ」
 俺の言葉に、男は口を開かない。その代わりに、男の傍に佇んでいた老人がゆっくりと、しかし無駄な動きなく頭を下げる。
 そして、次の瞬間には、その男の姿はもうどこにも見えない。
 執事のような身なりをした老人は、俺の前に現れたときも突然だった。簡潔に用件だけを告げられて、やはり次の瞬間には、俺はその老人と共にこの場所に降り立っていたのである。否、彼は執事でも、ましてや人間でもない。目の前の男が使役する、正真正銘の悪魔だ。
 夜の草原に、俺と男だけが取り残される。
「会おう、などと言い出したのは貴様のほうだ」壮大な沈黙の中、男が口角をわざとらしく持ち上げて言った。「俺は場所を提供してやったに過ぎん」
 男はシンプルな白いシャツの前で腕を組んだ。首許や腕の露出が多い一方で、両手は黒の皮手袋に覆われている。
「それにしたって、なんでわざわざこんな場所を選んだんだよ」
「見晴らしが良いからな。刺客がいないことを確認できる」
 男の言葉に、思わず顔が歪む。それを見てか、男は腕を組んだまま、軽く肩を竦めてみせた。
「冗談だ」男が言った。「お前を信用していない、という意味ではない」
「いや、それでいい。そのまま俺を疑ってろ」
「可笑しなことを」
「今日は機嫌が良いな、ヒューゴー」
「それは認めよう。ゆえに、ミスタ・G。そろそろ本題に入れ。妹が俺の帰宅をお待ちかねだ」
 そう言って、ヒューゴーは片方の口の端だけを器用に釣り上げた。
 月の光が、男に降り注ぐ。
 暗闇と静寂に満ちた草原の中で、男だけが、禍々しいほどの光を放っていた。
「単刀直入に訊く」慎重に口を開く。「俺と対立する理由を、言え」
「もう忘れたか」男は素早く鼻で笑った。「貴様の前で宣言してやったとおりだ。俺は、完全なる存在ゆえに⋯⋯」
「ゆえに、誰の支配も受けない」
「うん?」片眉を持ち上げると、ヒューゴーは首を僅かに傾げた。「覚えているではないか。なぜ訊ねる?」
「当たり前だ。あんな馬鹿みてえな言葉、忘れられるわけがねえよ」
「俺は、なぜ訊ねたのかと問うている」
「本当の理由を答えろ。その理由は、いくらなんでも、⋯⋯お前らしすぎる」
 は、と男は声を零した。吐き出された息は、明らかな嘲笑の色を伴っている。次第にその笑い声は大きくなり、やがて無遠慮な高笑いが暗闇に響き渡った。
「まさか、まさか貴様は、それだけの根拠でこの俺を呼び出したと言うのか?」
「悪いかよ」
「お前が、斯様なリスクを冒してまで?」男は美貌を歪めて、可笑しそうに笑い続けている。「そうか。ならば仕方あるまい。気が乗った。幾許か、貴様の期待に応えてやるとも」
 男の表情が突如切り換わる。その薄い冷笑に、俺は密かに身構え直した。
 この男は、敵だ。
 聖戦と呼ばれる静かな戦争で、両陣営、すなわち世界を敵に回した男。俺がもっとも敵に回したくなかった、男。
「お前の陣営を離脱した理由、か」ヒューゴーが目を閉じる。「なに、単純だ。妹のために他ならん」
「妹?」
「許せ、ミスタ」ヒューゴーは素早く目を開いた。青い瞳が、力強く此方を射抜く。「今言えることはこれだけだ」
「なにから妹を救うってんだよ」
 俺の問いに、しかしヒューゴーは、その薄い唇を開かなかった。
「妹を救うために、全部を敵に回したっていうのか?」
 男が頷く。
 そして、僅かに眉根を寄せた。
「とはいえ、だ。あの宣言も嘘ではない。俺は世界なぞのために生きるつもりも死ぬつもりもさらさらないのでな。誰が俺を支配できる? 俺を支配するのは俺だけだ。俺は、俺のために生きる。それだけのこと」
「妹のためじゃねえのかよ」
「俺のために生きるということは、妹を守り抜くことに己の全てを擲つことだと言っているのだ。わからいでか、犬っころめ」
「あ?」
 突然の罵倒に、俺はつい眉根を寄せた。かつて学生だった頃を想起させる口調で、男は挑発を続ける。
「国家の犬、と言った。随分と耳が悪いらしい。鼻は良いんだろう?」
「お前⋯⋯」
 ヒューゴーが、俺を見る。
 異様な彩度を放つ青い両目を、まるで俺をいたぶるかのように細めて、俺を正面から見据えていた。
 しかし、
 男の口から笑いの滲んだ息が吐き出されるや否や、突如、ヒューゴーは再び豪快に笑い始める。
「おい、テメェ⋯⋯」舌を打つ。「馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
「いやなに、これだけ挑発してやったというのに、お前が手を出さぬとは」
 笑われる理由がわからず、さらに苛立ちが募る。一方で、ヒューゴーはゆっくりと笑い声を止めると、自信に満ち溢れた笑みで静止した。
「今のでよくわかった。お前も同じか、アーノルド」
「は、」
 咄嗟に反応することができなかった。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。此方の僅かな変化をこの男が見逃すわけもなく、ヒューゴーは満足げに笑みを深めた。
「ゆえに、俺への攻撃を躊躇ったか。やはり、お前に玉座は似合わん。お前は優しすぎる」ヒューゴーが月を見上げた。「さて⋯⋯、辺境の草原で人知れず新たな戦争が勃発する前に、解散を奨励するが」
「ああ⋯⋯」
 此方の肯定の返事を受け、ヒューゴーが動く。ヒューゴーは、俺のすぐ横を通り過ぎていった。
「世界の犬でありながら動くのは難しいぞ」
「わかってる」
「いつかお前は、己が手で妹を殺すのだ」
「妹は、⋯⋯悔いてねえ。そう言った」
「お前が悔いているかぎり、妹の覚悟は意味を為さん」
「だから俺は、」
 振り返る。
 無風。
 男の銀糸の一本さえ、揺れることはない。
「アーノルド」此方の言葉を待たず、ヒューゴーが俺の名を呼んだ。「まさか、その程度の覚悟で知っているつもりではあるまいな」
「なにを⋯⋯」
「己の手で妹の命を奪う。その真の意味を、だ」
「お前、」
「理解したつもりでいるのならば早急に改めろ」
「おい待て、」
「今宵ばかりは休戦だ。では」
 男はそう言って片手を上げると、瞬きの間に闇に呑まれて消えてしまった。
 そして、俺もまた、次に目を開くと見慣れた自室の中央に立っていた。空間転移、という、この世ならざる存在でなければ行使できない魔術に躰が慣れておらず、僅かに吐き気がした。
「ヒューゴー」
 誰もいない自室でひとり、男の名を呟く。
 彼の妹の姿を、思い出した。同じ銀髪碧眼で、けれど兄とは対照的な少女。誰よりもあの男を慕う妹、そして、あの男が誰よりも愛する、妹。
 まさか、お前は。
 知っているとでもいうのか、ヒューゴー。