プロローグ

 
 或る日、妹の両目が血のような赤色に染まった。
「これは呪いによるものだ」と、アーノルド・エルガーは妹本人の口から聞いたのか、それとも、事前の連絡もなく早朝の屋敷を訪ねてきた老人たちから聞かされたのかは、今となってはよく覚えていない。妹の異変と突然の来客に、屋敷は朝からひどく慌ただしい空気に支配されていた。記憶の順序も仔細も頭から飛んでしまうほど、この日はまさに、少なくともアーノルドにとっては、人生最大といっても過言ではない、激動の一日だったのだ。
 アーノルドが来客の知らせを受けたのは、朝、ダイニングルームで妹と顔を合わせ、彼女の目に起こった異変を確認してすぐのことだった。
「理事会の方々がお見えです」馴染みの執事がアーノルドに耳打ちをした。「卿と、それから⋯⋯、レディの同席を要求しておられます」
「妹の?」アーノルドは執事に向けて眉根を寄せた。「目的は?」
「機密情報のため直接お伝えしたい、と」
「なんだってたんだ、ったく、次から次へと⋯⋯」
 アーノルドは乱暴に溜息をつき、妹へ視線を戻す。自分よりも眩しく輝く金髪の頭頂部を見下ろした。
「エル。協会から来客だ。お前もだとよ」
「はい」僅かに目を伏せて、エルと呼ばれた少女は硬い声で頷いた。
 アーノルドはすぐに、妹を連れて応接室に向かった。応接室には、アーノルドたちが所属するとある協会──〈秩序の隠れ家〉の、理事会のメンバである老人たちが五人、ソファや椅子にそれぞれひとりずつ腰かけていた。さらにもうひとり、見覚えのない比較的若い男が壁際に立っている。
 アーノルドたちの入室に、老人たちが各々立ち上がる。形式的な挨拶ののち、老人五人とアーノルドたちはおおよそ向かい合う形で着席した。応接室には計八人。使用人たちの入室が禁じられたため、応接室のテーブルにはなにも置かれていない。
 そうして、アーノルドの正面に座っていた代表理事が事務的に読み上げはじめた内容に、アーノルドは一度、隣の椅子に腰かけていた妹と思わず目を合わせた。彼らにとってそれは、非常に珍しい形のコミュニケーションだった。
 そのときの妹の表情を、どういうわけか、アーノルドはよく覚えている。緊張した様子で僅かに躰を強張らせている妹は、しかし、どこか拍子抜けしたような、無防備な表情を此方こちらに向けていた。純粋な疑問さえ抱けずに、ただ此方を見た、というだけの彼女の目。
 自分と似たような緑色をしていたはずの目は、やはり、鮮血に濡れそぼったかのような赤色に染まっている。
 アーノルドは口もとを微かに引き攣らせたまま、正面の老人に顔を戻した。
「たいへん、お言葉ですが⋯⋯」アーノルドは慎重に声を発した。少しでも気を抜けば、口汚く捲し立ててしまうだろうことは容易に想像がついた。「いったい⋯⋯、どういったおつもりでしょうか?」
「どういうつもりもなにも⋯⋯」老人は、ゆっくりとした動きで数度頭を揺らした。老人の声に合わせて、彼の口もとに生い茂る灰色の塊のような髭が静かに蠢く。「ミスタ・ゴールド。金の名を冠する貴殿には、その責務がある、ということに他ならない。その色の名を背負うという意味を、重責を、もちろん、貴殿はよくよく知っておいでだろうが⋯⋯」
 アーノルドは眉間に力を入れ、老人の言葉に対して目を細める。
 一方、老人は、皺と皺の間から睨むようにしてアーノルドを上目遣いに見た。広い額に層が増え、彼の髪を覆い隠す布地の帽子が僅かに持ち上がる。
「よもや、世のために、なによりも、我々の信ずるところの神のためにすべてを投げうつ覚悟もなくその色の名を冠したわけではあるまい、金卿⋯⋯」
「だとしてもだ、」思いのほか大きな声が出た。「いえ、だとしても⋯⋯、その責務を負うべきは私であるはずです。なぜ、妹なのですか? そこをご説明いただきたい、と申し上げている」
「貴方の妹君である、というだけで⋯⋯」老人が一度、軽く喉を鳴らす。乾いた咳だった。「それだけで、すべての理由になりましょう」
「なに?」
「よいかな、金卿」老人が片方の眉を大きく弓なりに持ち上げた。「貴殿は、選ばれ、与えられし我らの中でも、さらに色の名を与えられたお方。与えられた者、持つ者にはそれ相応の義務があり、役目がある。我々はたしかに、聖書に記載なき民ではあれど、しかし、同時に我々はまた、この世に在るべくして生み出され、使命をこの身に抱えた民であり⋯⋯。すべてから秘匿されながら、すべてを継承する責務が我々にはある。であれば、金卿。貴方が今成さねばならぬことは、唯一明白のこと。それを否定なさるというのであれば、それは神そのものを疑うことと⋯⋯」
「だから、妹をこの手で殺せって?」アーノルドは隠すことなく顔を歪めた。「冗談じゃねえぞ」
「金卿、そのような⋯⋯」老人の隣から、副理事が非難の色を乗せて口を挟む。「いくら色位をお持ちとて、そのような口の利き方は、断じて⋯⋯」
「とにもかくにも⋯⋯」老人は軽く片手を持ち上げて男を制しながら、何度か咳き込みつつも言葉を続けた。老人の声には、ところどころ逆剥けのようなノイズが混じる。「我々としては、とにかく、貴方にはその責務を果たしていただきたい、ということだ。わかるかね? 我々は絶対に、断固として、あのようなおぞましいおこないの数々を認めることはできん。我々があれを排斥せずして世の正しい運営は有り得んのだよ。そう、いわば、これは、聖戦なのだ。永き歴史の中で幾度と繰り返され、正しき道を指し示す、神により託された制裁に他ならない。神が創造された秩序を破壊する者どもを、どうして生かしておけよう? 息のある者をひとりも生かしておいてはならんのだよ。彼らを絶滅させるまで、我々は戦わなければならない。であれば、卿⋯⋯、そして、レディ・ゴールド。貴殿らがまた大きくその責務を負うべきであると、貴殿らであれば、ご理解いただけよう」
「さっきから黙って聞いてりゃ、まどろっこしい言い方しやがって⋯⋯」
 その態度にか、数人の老人が顔を顰めた。
 そのあからさまな表情に、アーノルドはさらに眉を寄せる。
「聞きたいのはそんなことじゃねえよ。つまり、早くそいつらを潰さなきゃならないから、手を貸せ、協力しろって言いたいんだろ? そんで、間に合いさえすれば、こいつの⋯⋯」アーノルドは素早く隣の妹に目を滑らせた。「てめえらが妹にかけた・・・・・・・・・・っていうこの呪いも不発で終わる。そういうことでいいんだな?」
 老人はアーノルドの問いかけに対し、静かに頭を揺らす。
 であれば、自分はどのみち協力せざるを得ない。
 ならばさっさと情報を寄越せ、とアーノルドは半ば投げやりに口を開きかけて、ふと、応接室の外が妙に騒がしいことに気がついた。くぐもった声。明らかに浮ついた、忙しない空気。
 部屋の外の異様な空気に、応接室にいた人間全員が気づきはじめた頃、扉の向こうからまっすぐ此方に近づいてくる速い足音がした。
 すぐに、爆発したような音をたてて応接室の扉が勢いよく開かれる。
 アーノルドは咄嗟に妹を背に庇いながら立ち上がる。扉を開けた男よりも先に、男のうしろから制止のために追いかけてきたらしい使用人の姿が目に入った。
 さらに、複数人の走る足音。
 アーノルドは扉を開け放った男に目を向けた。
 男と目が合う。
 青い目。
 短い銀髪。
 よく見知った顔の男──ヒューゴー・ダルシアクが、そこにいた。