第二章 大暑

 
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 シャワーの音で目が覚めた。
 躰を起こし、携帯を探して時刻を確かめる。六時を少し過ぎていた。真崎が朝のランニングから帰ってきたのだろう。
 制服に着替えて洗面所に入ると、ちょうど浴室から出てきた真崎と鉢合わせた。
「お、珍しい。おはよ」
「お早う」
「今日起きるの早いじゃん。文化祭、結構楽しみにしてたとか?」タオルで頭を拭きながら真崎が笑う。
「んなわけあるか」顔を水で洗ってから、もう一度顔を上げた。「ていうか、おかえり」
「おう。ただいま」
 歯を磨いている間に真崎は制服に着替え、二人でリビングに出る。リビングと言っても六畳もないスペースで、どちらかといえば、俺たちの部屋と玄関の狭間、と説明したほうがより正確だ。
 真崎は狭いキッチンの前に立つと、朝食の準備を始めた。
「卵焼いとくから、パン焼いて皿出しといて」
「わかった」
 真崎の指示に従い、五分後、食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せた朝食を食べた。その後、自分の部屋に戻って、鞄の中身を確かめながら、真崎の髪のセットが終わるのを待つ。
 いつも通りの朝。
 眼鏡をかけ、机に置いていた腕時計を装着し、数珠のブレスレットを左腕に嵌める。
 突然、
 数珠がばらばらと音を立てて床に転がった。
「え?」
 糸が千切れたのだと理解するまで少し時間がかかった。気がついたときには珠がそれぞれあらぬ方向に散らばっていて、それらを慌てて拾い集めているときに、真崎が部屋に入ってきた。
「さっきの音、何?」
「あ、いや、なんか急に数珠が切れて⋯⋯」
「中の糸、長いこと取り換えてなかったもんな」真崎もその場にしゃがみ、珠を拾う。「ぎりさまに連絡しとくわ」
「なんで兄貴?」
「あれ、聞いてねえの?」
「知らん」
「こないだ、もし千切れたら、すぐに連絡してこいって言われたんだけど」
「そない大事なもん持たすなや⋯⋯」机の下に転がってしまった珠をどうにか取り出した。
「陽桐さまから貰ったんだっけ? それ」
「ううん。父さん」
「そりゃあ、たしかに大事なモンだな」真崎は幾つかの珠を俺の手に乗せると、どこから取り出したのか、ビニル袋の口を開いた。「これに入れとけよ」
「どっから出てきたん、この袋」
「お前がいつ吐いてもいいように、持ち歩くことにした」
 その言葉にどこか気恥ずかしさと罪悪感を感じながらも、拾い集めた珠と切れてしまった糸を入れて、袋ごと鞄の中に放り投げた。
 家を出て、学校に向かう。いつもと同じ時間に登校したが、教室も廊下も、浮き足立った生徒たちで溢れていた。
 まずは体育館で、仰々しく開会式が行われる。その後、吹奏楽部のステージと、演劇部による舞台があり、それらが終わると各クラスの出店準備に移った。
 体育館を出て、クラスの屋台の準備を手伝っていると、さらに周囲が賑わっていく。保護者、もしくは生徒からの招待があれば、学外の人間も立ち入ることができるため、単純に人の数が多い。
 俺と真崎は、模擬店のスタッフ担当として午前最初のグループに割り振られていた。真崎は注文を受け、俺は奥で淡々と皿を用意する係だ。ときどき、調理担当の女子グループや、宣伝中の男子の騒がしい声に混ざって、楽しげな真崎の声が聞こえてくる。
 クラスの仕事から解放されたあとは、片っ端から食べ物を買い占めようとする真崎の後ろを歩いていた。文化祭の日だけ通貨となる生徒会手作りの紙切れは全て真崎に譲っていたが、途中で、真崎が唐揚げの入った紙コップを此方に差し出してきた。模擬店が多く集まる中庭のベンチに座り、俺と真崎は並んで食事をする。真崎の手には同じく唐揚げ入りの紙コップ。膝に載せた容器には焼きそばとホットドッグ、謎の粉物料理にチュロスと山盛りだったが、俺が唐揚げを食べ終えた頃には半分ほど消滅していた。
「近衛さんって何組?」チュロスを齧りながら真崎が訊ねる。
「五組」
「たしか、五組って教室で焼きおにぎり売ってるんだっけ。うわ、美味そう、あとで食べに行こうぜ。ほら、近衛さんにも会えるかもだし?」
「あいつが文化祭に参加しとるとこ、全く想像できんけどな⋯⋯」
「クラスTシャツとか似合わなさそう」
「紙コップ、捨ててくる」空になった真崎の紙コップを指さした。
「さんきゅ」
 真崎からゴミを受け取り、近くのテーブルまで歩く。時折、私服の人間とすれ違った。思った以上に、外部の人間が多く来ているようだ。
 横長のテーブルには白、青、黒のゴミ袋がテープで貼られており、ゴミを分別して捨てる決まりになっていた。どちらも紙だったので、青いゴミ袋の中に捨てる。
 顔を上げると、少し離れたところに、黒い集団がいた。此方に近づいてくる。どうやらスーツを着た数人の集団のようだが、わざわざ会社を抜け出して立ち寄ったわけではあるまい。
 そんなことを思いながら、その場をあとにする。
 歩いて。
 しかしすぐに、俺は走り出した。
 女子の、短い悲鳴。
 騒々しい足音。
 振り返る。
 案の定、黒い集団が追いかけてくる。
「狭霧!」その声に、俺は前へと視線を戻した。真崎だ。此方に向かって走ってくる。「え、お前、なに引き連れてんだ!」
「知るか!」
 全力で走るが、僅かに追いつかれている。常人のスピードではない。スーツの男たちから逃げ切れば賞金を獲得できる番組があったな、と、場違いに呑気な思考が過ぎった。
 突如、背後から、首に腕を回される。
 勢いよく引き寄せられた。
 男の腕が首を締め上げるが、男の足の甲を思いきり踏みつけ、一瞬怯んだ隙に拘束から逃げ出す。
 真崎が俺を追い抜き、前に立ちはだかったところで、俺は集団と相対した。真崎の登場に驚いたのか、男たちは足を止める。
 周囲の目が、自分たちに向けられている。生徒はおろか、先生たちもこの状況を呑み込めていないようで、奇妙な静寂が辺りを支配していた。
 男のひとりが腕を突き出した。拳銃か、と一瞬身構えたが、その手にはなにも握られていない。
 男がなにかを呟く。
 いきなり、男の手が捻れた。
 真崎は俺を庇う体勢で、目の前の男たちに警戒している。
 男の腕の歪みが原型を留めなくなった頃、
 それは唐突に、放出された。
「ッ、真崎!」
 咄嗟に真崎を突き飛ばす。次の瞬間、俺たちの背後にあった屋台のテントが、音を立てて崩れ落ちた。
「な、なんだ今の、」
 受け身を取り、既に態勢を立て直していた真崎が、驚いたように叫ぶ。崩れ落ちたテントは、足が一本、見事にへし折られていた。
「おい真崎! 前、前!」
 俺の声に、真崎は咄嗟に左に避けたが、その次の攻撃を躱しきれず、少し離れた場所で地面に叩きつけられた。真崎は、男の腕から放出される謎の衝撃波を視認できない。
 折れたテントの足を急いで掴み、真崎の傍に駆け寄った。
「バカ、なにやってんだ、さっさと逃げろ!」真崎は脇腹を手で押さえながら、立ち上がろうとしている。
「阿呆、お前置いて逃げられるか!」
 パイプを構えるが、躰が少しふらついているのを自覚した。
 目眩がする。
 男たちは動かない。息の詰まるような緊張感の中、男の囁き声が耳に届いた。仲間内で相談しているのか、もしくはどこかに連絡をしているのかもしれない。
「そのパイプ寄越せ」真崎は俺の隣に立つと、そう耳打ちした。
「じゃあ、その間に、俺が錫杖取ってくる」
「無理」渡したパイプを軽く振りながら、真崎は声を潜めたまま、鋭く言い放った。「お前が走って教室に行こうもんなら、アイツらも全員それを追っかけるだろうぜ。んなの、此処に戻ってくる前に、校舎の中で追い詰められて捕まるのがオチだ。もう少し人数が少なけりゃオレひとりで抑え込めるけど、さすがに⋯⋯」
 男たちと真崎が、同時に校舎を見上げた。
 釣られて、見上げる。
 三階の窓。
 なにかが乗り出している。
 次の瞬間、そのなにかは、なんの躊躇もなく飛び降りた。