第二章

 
     1
 
 数日後。エルは自室の窓から、アーノルドが外出する様子を見下ろしていた。
 広大な、気持ちの良い芝が屋敷の周囲には広がっている。兄が乗ったコンパクトな馬車も、しばらくの間、ずっと見ることができた。
 粒のように小さくなり、やがて姿が見えなくなってから、エルはようやく窓から視線を外す。
「どこへ出かけたのかしら」
「確認いたしましょうか?」ちょうど部屋にいた侍女が答える。
 エルはその提案に、緩やかに首を振った。結局、あれ以降、兄とは特に会話をしていない。その関係性は、いつもどおりといえばいつもどおりだ。だが、そもそも、あれほどの事件が屋敷の中で起こったにもかかわらず、その詳細をなにひとつ使用人たちには伝えていない兄のことだ。今回も、己の立場上行き先くらいは伝えているだろうが、使用人たちに兄が詳細を伝えているとは思えなかった。
 どのみち、軽々に口にしてよい内容でもない。
 今、エルたちを取り巻いているもっとも大きな問題。その問題の中心は間違いなくエルであるにもかかわらず、兄のアーノルドは、そのエル自身すらも近づかせないようにしている。少なくとも、エルはそのように感じていた。なにも知らずにいることを望まれている。その望みは、ともすれば強要にも近い。
 諦めと、ほんの少しの苛立ち。
 ここ数日のエルは、ずっと、その中にある。
 それから小一時間ほど、彼女は手持ち無沙汰に刺繍をしていたが、没頭することもできない。途中から意識の焦点は手もとの刺繍にはなく、大きな、けれどまだ漠然とした不安ばかりに向けられていた。それを振り払うようにして刺繍を止め、ソファから立ち上がる。
「庭に出てもいい?」侍女に声をかける。
 侍女は頷くと、すぐにショールを手に取り、エルに羽織らせた。
 侍女と共に部屋を出る。階段を下り、ぼんやりと装飾を眺めながら、吹き抜けの大広間を通り抜ける。
 静かな屋敷は、しかし出入り口に近づくにつれ、僅かに騒がしさを増していった。
 エントランスホールに足を踏み入れたところで、エルは足を止める。
 執事と従僕が出入り口の傍に立っている。裏口ではなく表の出入り口を使用しているということは客人かもしれない。一度出直すべきか、と思い、引き返そうとした、そのときだった。
 使用人ふたりの前に、少年が立っているのが見えた。見たことがない少年だった。ボリュームのある帽子キャスケットを被っており、顔の印象のほとんどが帽子の中。服のサイズが大きくもたついているものの、栄養失調、というほどでもない。ひどく庶民的な簡素な装いだが、白く眩しいシャツに汚れは見当たらない。貴族とも、市民とも、使用人とも判断のつかない、不思議な少年だった。
 少年が、此方を見る。
 青白い肌に対して、健康的な目の輝きが印象的だった。
「お嬢様、」執事が振り返る。「申し訳ありません、一度お戻りを⋯⋯」
 少年は片手になにかを持っていた。握り込めてしまうほど、小さなもの。それを、突如、なんの前動作もなく、此方に向かって下から放り投げた。
 床に、軽いなにかが落ちる。
 瞬間、
 目の前が一瞬で、真っ白になった。
 次いで、勢いよく躰がうしろに引っ張られる。
 短い悲鳴が漏れた。
 熱風。
 息ができなくなるほどの。
 真っ白な光。
 鋭く甲高い金属音。
 刺々しく苦い煙の味。
 爆音。
 侍女がエルに飛びつき、覆い被さった。
 しかし、
 すぐに、なにかに受け止められる。
 自分を正面から抱き締めている侍女。
 そして、すぐうしろにも、軟からな躰の感触がある。
「お嬢様!」執事の声。
 床が振動している。
 慌ただしい足音。打撃音。
 薄まった煙の幕越しに、少年が従僕に押さえつけられているのが見えた。
 少年に抵抗の様子はない。
 そんなことを、冷静に考えている。
 大丈夫、と声をかけようとして、
 口を片手で軽く押さえられた。革手袋のごわごわとした感触。
「まだ口を開かないでください」エルの耳もとで、清冽な声がした。「煙を吸い込む可能性があります」
 エルは口を押さえられたまま、横目ですぐ傍の人物をたしかめようとする。
「誰だ!」使用人が叫ぶ。
 口を覆っていた手が、あっさりと解放された。
 自分の背中を抱き留めていた腕が、エルの躰を軽く起こしてその場に立たせる。同時に侍女もエルから離れ、体勢を立て直した。侍女は、口に力を入れて噤んだままエルを見て一度頷くと、エルの肩に手を添えてうしろへと誘導する。
 煙が晴れる。
 正面に、ひとりの少女が立っていた。
 少し癖のある、長い銀髪の後ろ姿。
 エルよりも背は高い。
 少女は、執事と従僕、そして床に押さえつけられたままの少年のほうに向かって歩き出した。
 一定の靴音がホールに響く。
「何者だ!」使用人の叫び声。
「拘束は不要です」平坦な抑揚でその少女が言った。「今すぐ退避してください」
「動くな! それ以上動くことは⋯⋯」
「待て、あの方は⋯⋯」潜められた執事の声が聞こえた。
 そのとき。
 床に倒れている少年が、うつ伏せのまま手首を捻った。
 もう片方の手にもなにかが握られていたらしい。
 少女がそちらに向かって動き出す。
 再び、煙。
 爆発音がしたが、次は短く鈍い音をしていた。
 数秒後、低い振動音を残しながら、煙が徐々に薄まっていく。
 少女が、少年の手を踏み潰していた。
 少年は、大人しくその場に横たわったまま。
 少年は動かない。
「既に活動停止しています」少女が告げた。淡々とした声音だった。「自爆用の爆発物を封じましたが、間に合いませんでした」
 少女が足を退ける。
 此方を振り返った。
 銀髪が素早く揺れる。
 青い目。
 美しい少女だった。
 耳の下で、嘘みたいに鮮やかなブルーの石が揺れている。
 既視感。
 もちろん、見たことはない。知らない少女だ。
 それでも、誰なのかは、すぐにわかった。
 少女が、エルに向かって歩いてくる。
 執事が止めようとした。しかし、エルは正面から向き合い、対面する。
 少女は、少し離れた場所で立ち止まった。
 向かい合う。
「ご無事でなによりです」先に、銀髪の少女が唇を開いた。
「ええ、貴女のおかげです。助けてくださり⋯⋯、本当にありがとうございます」エルは一度目を伏せ、礼をする。「ですが⋯⋯、どうして此方に? それに、貴女は、もしかして⋯⋯」
「クロエ・ダルシアクと申します」
「ということは、やっぱり、銀卿の?」
「はい。ヒューゴー・ダルシアクは私の兄です」
「そう⋯⋯」エルは頷いた。「とりあえず、どういうことか、説明をいただきたいのですが、まずは、あの⋯⋯」エルはそこで、床でうつ伏せに倒れたままの少年のほうに目を向ける。
 最近、こんなことばかりだ、と憂鬱な気持ちが鈍くのしかかった。
「彼は、その少年は⋯⋯、何者ですか? どうして、此処に⋯⋯」
 エルの問いかけに、しかし、彼女はなにも答えなかった。動きらしい動きといえば、青い輝きを一瞬遮る乾いた瞬きだけ。
「貴女は、どうして此処に?」エルはさらに訊ねた。
「貴女に危険が及ぶことを把握していたためです」
「どうして知っていたの?」危険な問いかけだ、とエルは思う。
「この場でお話することはできません」
「では、わたしとふたりだけなら話せますか?」
「はい」少女はエルを見た。硝子玉のような青い目だった。