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アーノルドにとって、ヒューゴー・ダルシアクという男は辛うじて旧友と呼べる貴重な男のひとりだった。
共に〈色位〉を持つ特異な立場にあるためか、年が同じであるためか、いったい自分のなにがこの男のお気に召したのかはわからないが、現状、半ば振り回される形ではあれど関わる機会の多い男である。もっとも、アーノルドはその男を友であるとは認めていない。対等な人間として遠慮なく接することができる数少ない存在であることは事実だが、この間柄を友と認めるには少々物騒な記憶が多すぎる。そう、アーノルドの記憶にあるのは、常にその美しい顔を不遜に歪めながら、なにに対しても我が物顔で笑みを浮かべてみせる顔ばかりだ。
しかし、今の男の顔にはひとつの笑みもない。
ひとつの激情もそこにはない。停止した表情。ゆえに強調される、その男の対称性。あまりにも完全なすべての配置が、男から人間味というものを失わせている。まるで彫刻が動いているかのような不自然ささえ、そこにはあった。
応接室の扉を開け放ったヒューゴーは、アーノルドを捉えたあと、無駄な揺れのない動きで青い目を横に滑らせる。
アーノルドはその視線の先を追って、素早く自分の背後を振り返る。
背後に立っていた妹が、赤い目で此方を見上げた。
顔を正面に戻す。
男が応接室に足を踏み入れたところだった。
正確に連続した硬質な足音。
「銀卿⋯⋯、おお、これは⋯⋯」老人のひとりが椅子から腰を浮かせる。「卿、いったい、」
そう口を開いた老人の首を、男が切り裂いた。
頭が、宙に飛んでいる。
沈黙。
やけにゆっくりと、老人の躰が傾いていく。
冗談のように血を噴き出す首の切り口が見えて、
仰向けの、老人の胴体が、
応接室の床に落ちる音が鈍く。
一拍遅れて、
老人の頭が、勢いよく床に打ちつけられる。
そのまま回転し、弾みながらしばらく転がった。
やがて、失速。
鼻先が床に触れ、
床の上で頭は左右に揺れ残り、
目と口を開けて、
此方を向いている。
躰は、少し離れた場所。
無音。
空白。
そして、
甲高い絶叫が屋敷のそこかしこで響き渡る。
老人たちは次々と立ち上がるが、それよりも先に男が首を切り裂いていく。あまりに突拍子もない事態に、アーノルドは妹を庇いながら立っているのが精一杯だった。
血が次々と飛び散り、自分の服に染み込んでいく。
男の手には、いつのまにか細身の剣が握られていた。鈍い銀色の反射すら失われるほど、その剣身は既に粘性のある赤色に染まっている。
重く軟らかい物体が、床に打ちつけられる音。
生温かい体液。
血の匂い。
あっという間のできごとだった。
五人の老人は、もう生きてはいない。
地獄のような光景だった。
あとひとり、
男が振り向きざま、最後のひとりをすかさず切りつけようとして、
しかし、男は直前でその手を止めた。
男の持つ剣は、相手の首の皮に触れたまま。
停止した時間。
息を止めている自分を自覚する。
「おい」ヒューゴーの低い声が響いた。「誰だ、貴様」
そう言って、訝しげに眉を顰める。一方、刃を首に押し当てられた若い男は、痙攣のように小さく頭を何度も横に震わせた。目を見開いたままヒューゴーを見つめ、声にならない息を吐き出している。
首から、血が一筋流れ出そうとしているのが見えた。
「どこかで見た顔だな」ヒューゴーが問う。
「い、いえ、そんな、まさか、卿、わたしは⋯⋯」絞められた喉から絞り出されたかのような声。「お会いしたことは、わたしのような者が、一度も⋯⋯」
「いや。そうか、貴様⋯⋯」男はそう呟くと、焦点を絞るように静かに目を細める。が、すぐに顔を虚空に向けた。「ディミトリス!」
突如、
暴力的なまでに数段増した重圧。
一瞬にして体中の毛が逆立つ。
アーノルドは反射的に、眉間に力を入れて目を細めた。
ヒューゴーが向けた視線の先。
音もなく、気配もなく、予兆もなく。
まるでずっとそこにいたかのような自然さで、そこにひとりの大男が立っていた。
【おい、なんなんだ次は、急に出ろだの引っ込めだの⋯⋯】大男が欠伸交じりに口を開く。
感覚器に割り込む直接的な声が、震動し、アーノルドの脳を揺さぶる。
皮膚を逆撫でする、この世のものではない感覚。
一方、男は自身の襟足を大きな手で掻き毟りながら、寝起きのような緩慢さで躰の向きを回転させる。随分高い位置に男の横顔があった。
そこに立っていたのは、およそ人間離れした体躯の、大柄な若い男である。
そして、事実、この大男は人間ではない。
ヒューゴー・ダルシアク──〈銀〉の名を冠する旧友の手によってこの世に姿形を取る、この世ならざる存在。
悪魔。それが、この大男を指す呼称である。
【おーおー、しっかし⋯⋯】悪魔の男は血浸しの応接室を悠長に眺めながら口を開いた。【こりゃまた随分派手にやったなあ、お前⋯⋯。で? ちったぁ気ィ済んだかよ】
「わかりきったことを訊ねるな」ヒューゴーは剣を男の首に押し当てたままの体勢で、顎を持ち上げて指図する。「この男を連れていけ」
【え? ああ⋯⋯、はいはい】悪魔は曖昧に頷くと、足を竦ませている男の肩に手を置いた。男は、先ほどから見ていられないほど躰を震わせ、全身を揺らしている。【んじゃまあ、そういうこった。なに、悪いようにはしねえよ。知ってること全部教えてくれりゃ解放するさ。な? ヒューゴー】
ヒューゴーは悪魔の問いかけには答えず、もう一度顎を素早く持ち上げる。次の瞬間には、悪魔と最後のひとりの姿はもうどこにもなかった。
途端に、応接室に空虚が広がる。
噎せ返るような血の匂いが、湿度を伴ってアーノルドの周辺に充満していた。
男は剣を持つ手を軽く振り払う。投げやりに剣を投げ捨てる動きにも見えたが、剣はすぐに、空中で蒸発したかのように消えた。
静寂。
アーノルドは左手を伸ばして背後の妹を庇いつつ、ポケットに右手を入れたまま一歩、前に出る。
男が此方を振り返る。
銀髪も、男の白い肌も、麻のシャツも、すべて同じ血の色に濡れていた。
血の雫が次々と、重たく深い赤色を引き摺りながら彼の前髪や頬を伝っている。
彩度の高い青い瞳だけが、男の本来の色だった。
「アーノルド」男の低い声が響く。「ポケットに入れたままでは反撃が遅れるぞ」
舌を打つ。
ポケットから右手を出し、小型の拳銃を取り出した。
そのまま片手で男に銃口を向けると、男に狙いを定め、躊躇なくアーノルドは引き金を引く。
妹の短く高い悲鳴。
しかし、銃弾が発射されることはない。
その代わり、拍子抜けするほど間抜けに上部の蓋が開いた。その中で小さな炎が揺らめいている。拳銃型の発火装置。アーノルドの相棒とでも呼ぶべき武器だ。
引き金から指を離す。
連動して蓋が閉まり、火が消えた。アーノルドは右手を下ろすが、拳銃は握ったまま。
「舐められたもんだな」アーノルドは低い声で呟いた。
「お前の態度が呆れるほどに生ぬるいのは事実だ」
「てめえが過激なだけだろ」
「たしかに、頭に血はのぼっていたか。なにせ痛みも与えずに即死させてしまったのだからな」男は肩を竦める。「昔からの悪い癖だ。やはり、意識を残しておくべきだった。あれしきではまだ足りぬ」
アーノルドは返事をする代わりに、不快であることを隠さず眉間に力を入れた。
下ろした右手を少し持ち上げ、拳銃の引き金に指を添える。
引き金を引いた。
小さな火が灯る。
「答えろ。なにが目的だ。ヒューゴー」