幕間

 
 
 
 この世に神さまはいる。間違いなく。そしてその神さまは、とんでもなく依怙贔屓な神さまだ。
 たとえば今、目の前で「美味しいね」なんて呑気に微笑みながら人生で初めて食べるというオニオンリングをつまんでいる彼女のように裕福な生まれの人間がいれば、私のように典型的な庶民もいる。たとえば、通路を挟んだ斜め前方の席で上品に談笑しているとんでもない美少女のように神さまに愛された容貌の人間がいれば、私のような、平々凡々より少し下の容姿の人間だっている。
 ちなみに、美少女の向かいに座っているもうひとりの少女は、後頭部しか見えないのでお顔を拝見することはできないが、色素の薄いふわふわとした髪と、後ろ姿だけでもわかるほど華奢な躰つきをしている。先ほど、セルフサービスの水を注ぎにいくついでにそれとなく通路で立ち聞きしたとき、「こういうの、あまり食べる機会がなかったから、一度食べてみたかったんです。ちょっと悪いことしてる気分だね」と、のんびりと美少女に話しかけている声が聞こえた。相当浮いている。そもそも、造り物だと言われたほうがよほど納得できるお人形のような少女といっしょに、いくらちょっとばかりお高めの、お洒落なカフェと銘打たれているとはいえ、ハンバーガショップにいては浮くに決まっている。今にもナイフとフォークでハンバーガを食べだすんじゃないかと、ちょっとだけ気が気じゃない。
「ねえ、これ、どうやって食べるの?」
 もうひとりいた。今にもナイフとフォークで食べだしそうな女が。
「そんなもん、かぶりつけばいいんだって、がぶっと」
「こんなに開かないもん、口」玲香は可笑しそうに笑った。「零しても怒らない?」
「いいって、全然、大丈夫だから。私の前でくらい、ちょっとお行儀悪くなりなさいな」
「うん、じゃあ、思い切って⋯⋯」
 玲香はどこか深刻そうな表情を浮かべると、意を決して、両手で持ち上げたハンバーガにかぶりついた。かぶりついたと言っても、前歯でなぞっただけにしか思えないほど控えめで小さな一口だ。もうおわかりいただけたかと思うが、私は、盛大にくしゃみをしたあと、誰に向けたわけでもない悪態も添えるタイプの人間である。
「難しいね、食べるの」
 ここで、お世辞にも美味しい、と言わないのが玲香の良いところだと私は思っている。まだバンズを前歯でなぞっただけなのだ。美味しいかどうかなど、判別できるはずがない。
「まあ、こういうのは慣れだからね」
「慣れかあ」
 そう呟いて、玲香は人生で初めてのハンバーガに苦戦しながらも、少しずつ食べ進めていった。
 そんな生粋の箱入りお嬢さまとハンバーガショップに足を運ぶことになったきっかけは、苛烈な来店予約の争奪戦だった。
 この店は、今や爆発的な人気のため、インターネット予約制となっている。ハンバーガで予約ってどうなんだ、と思わなくもないけれど、結局、私のような人間がこの世には山ほどいるということだろう。もしかすると、この美少女も同担なのかもしれない。そう思うと、ちょっとだけ親近感が沸いた。
 人気になったきっかけは、とある番組で紹介されたことだ。
 この店は、裏通りの少し入り組んだところにあり、人目につきにくい。まさに日の当たらないお店だったわけだが、それを世に知らしめたのがなにを隠そう、私が推しているアイドルなのである。
 新星として突如現れ、そして瞬く間にその名を轟かせた、名護真崎と久遠狭霧のアイドルユニット。
 真崎くんは、国宝級イケメンの名を欲しいままにする、とんでもない美形の青年だ。短髪の前髪を掻き上げ、惜しげもなくその国宝顔面を晒している。色素の薄い瞳や髪、高い鼻、美しい横顔のシルエットも相俟って、ファンの間ではハーフ説やクォータ説がまことしやかに囁かれていたが、先日、先祖代々日本人しかいないと本人がきっぱり否定した。そうは言われても信じられないものは信じられない。
 どれほど拡大して見ても染みやニキビひとつない肌。まっすぐ通った鼻筋に、とんでもなく長い睫毛。顔面のパーツひとつひとつが国宝級である。しかもそれらが、もうこれが人類の最適解だろう、という完璧な配置をしているのだ。雄全開の顔からアンニュイな表情、優しい微笑みから弟分のような満面の笑みまで見せる男に惚れない人類がいったいどこにいるというのか。
 一方、狭霧くんは真崎くんとは全くタイプの異なる青年である。もちろん、その顔立ちは腹が立つほど整っているのだが、真崎くんを陽の造形とすると、狭霧くんは陰の造形と言える。昏い髪色の、少し長めの前髪。闇のような深い色の瞳。此方も相方の真崎くんとワンツートップで国宝級イケメンランキングに名を連ねているのだが、真崎くんのように、アイドルになるために生まれてきた男、というわけでもない。
 狭霧くんの最大の特徴のひとつは、その独特な雰囲気にある。少し近寄りがたいオーラを纏っており、あまり表情を見せず口数も少ない。三白眼気味の目つきと、どちらかといえば美形よりも男前と評される顔面が、クール系イケメンと呼ばれる所以なのかもしれない。しかし、口を開くとしっかりと訛った関西弁なのが堪らないギャップであり、滅多に笑わない分、その笑顔の破壊力は凄まじい。
 この店が紹介されたのは、狭霧くんの冠番組でのことだ。ただ近場を練り歩き、ひたすら食べては土産を買い込む狭霧くんの姿と、ときどきカットインする野良猫の映像。なんと、内容はそれだけ。久遠狭霧と野良猫、これらの存在だけで成り立っていると言っても過言ではない、アイドルらしからぬ地味さと手作り感溢れる旅番組。それが『久遠の旅』だ。しかし、飾ることも取り繕うことも苦手なのだろう彼の、良い朴訥さがよく現れた、ただただ平和で、癒しを与えてくれる貴重な番組なのだ。
 ただし、ときどきとんでもないゲストをお招きして視聴者に爆弾級の衝撃を与えることもある。
 たとえば、歌番組以外に出演しない、と公言しているはずの大物歌手。たとえば、人嫌いで有名な偏屈大御所俳優。そんな大物が、どういうわけか「久遠狭霧の番組であれば出演してもいい」と口にする。大御所俳優とふたりでアイスを食べる爺孫回は伝説である。
 そして真崎くんも、稀にゲストとして顔を出すことがあり、そのときにふたりが訪ねたお店のひとつがこのハンバーガショップだった。今、話題の中心にいるアイドルふたりが揃って「美味い」と太鼓判を押したハンバーガ。しかも、あれほど豪快に、ぺろりと、美味しそうに食べる映像を数分間に渡って見てしまったら、そりゃあもう、食べたくなるのが道理なわけで。
 あまりの来店客の増加に、店が予約制度を導入するのも道理。そして、その予約が、コンマ数秒のタップの遅れが勝敗を分ける争奪戦となるのも道理。
 そんな予約争奪戦と向き合っているときに隣にいたのが玲香だった。アイドルどころか俗世に疎い彼女は、いつも私が苦しんでいる様を見て「面白い珍獣だな」とばかりに微笑んでいるのだが、一瞬にして予約で埋まった画面を睨みながら私が修羅のごとき形相を浮かべていると、突然、「私が予約を取ってあげようか」と提案してきたのである。
 それはもう、大変魅力的な誘いだった。しかもお礼は、玲香を店に連れていき、初めてのハンバーガをいっしょに食べること。イージーすぎる。あまりにもイージーモードすぎる。
 実際、友人の金と権力に物を言わせて手っ取り早く予約を取りたい、という気持ちがあったことは否定しない。積極的に認める。けれど結局、彼女の提案は断った。その上で、いつになるかわからないけれどいっしょに行こう、と此方から提案し直した。
 なんとなく、自分の手で予約を掴み取りたいと思った。それは、彼らのファンとしても、玲香の友人として在り続けるためにもだ。単に、私が意地っ張りというだけではあるが、今、こうして予約を勝ち取り、ふたりで来ることができたので良しとしよう。
「ね、玲香、それ一口ちょうだい。狭霧くんが美味いって絶賛してたやつなの、それ」
「いいけど⋯⋯、狭霧くんってどっちだっけ」
「少女漫画の無気力クール系主人公が似合いそうなほう」
「ああ⋯⋯、なんだっけ、たしか、氷の彫刻?」
 玲香の質問に、私が「それそれそれそうなのまさに氷の彫刻のごとき造形美でね」と何度も頷いていると、彼女は困ったように笑いながらハンバーガを差し出してきた。一度、口を噤み、ハンバーガを受け取る。
 いちばんノーマルなタイプの、クラシックバーガを食べる。
「美味しい⋯⋯、高い味がする⋯⋯」
「でも、あんまり笑わないアイドルってアリなんだね」庶民によるハンバーガの感想を完全にスルーして、玲香が言った。「私がよく知らないだけかもしれないけど」
「まあ、カメラ目線もくれないくらいだからね」
「アイドルとして大丈夫なの? それ」
「大丈夫、大丈夫。ファンももう、何回カメラを見たか数えるのが楽しくなってるところあるから。それに、狭霧くんはほら、芸術家みたいなもんだし⋯⋯、ファンサは全然だけど、その分めちゃくちゃ真面目に曲とかライブの構成に向き合ってくれててさ。そっちの形で私たちファンのことを感じて、見てくれて、向き合ってくれてるんだってわかるから⋯⋯、パフォーマンスで返してくれるというか、ひたむきというか、真面目すぎるというか、まっすぐすぎるというか⋯⋯、そこが狭霧くんならではの魅力なわけ。あ、ハンバーガ、ありがとう。私が頼んだのも、勝手に食べていいからね」ハンバーガを丁重に返しながら答えた。「真崎くんがファンサの神だから、そこで釣り合いが取れてるってのもあるけど。いやもうすんごいから。マジで。あのファンサ浴びてファンにならない人間はこの世にいない」
「そこまで言われるとちょっと気になる」
「もうね、すんごい。ライブがあった日とか、SNSでファンサ速報がアップされたりしてね、ライブ直後から、ライブでどんなファンサがおこなわれたとかいろいろ情報が更新されるんだけど、もうその文字読むだけでときめき止まらなくなるから。いやまあ正直、生きてるだけでファンサだけど⋯⋯、だって、だってだってだって、伏し目がちになったときにさ、影ができるんだよ⋯⋯、睫毛の⋯⋯、え? 睫毛長すぎる⋯⋯、爪楊枝何本でも乗りそう⋯⋯、あの影が本当に美しくて、もうビックリするっていうか、そもそもさ、真崎くんが伏し目がちになるってだけでもうやばいんだよね。なんていうの、あの物憂げな表情⋯⋯、あの唇の絶妙な厚み⋯⋯、青年の色気⋯⋯、すんごいからもう⋯⋯」
「たしかに、すごく恰好いい人だよね」
「でしょ? でしょでしょでしょ? そうなの、そうなのよ⋯⋯」
「歌も聴いてみたけど、良かったよ。私でも知ってる曲があってビックリしたな」
「え、なに? ちょっと待って、聴いたの? 玲香が? ふたりの曲を?」
「せっかくふたりが来たっていうこのお店に行くんだから、少しくらい、ふたりのこと勉強しておこうかなと思って」
「え、待って待って、ちょっと、めちゃくちゃ嬉しいけど理解と情緒が追いつかない、ええ⋯⋯、待って⋯⋯」
「ずっと待ってるけど」
「嘘⋯⋯、めちゃくちゃ嬉しい⋯⋯、聴いてくれてありがとう⋯⋯、ちなみにどの曲? 覚えてる?」
「何曲か聴いたよ。私が知ってたのは、甲子園のテーマソング? だっけ」
「あれね、いいよね、まさに青春って感じで⋯⋯、ふたりの曲ってさ、いつも真ん中ストライクっていうか、感情がもう心の奥底からドバーッて勢いよく湧き出るというか、溢れ出ちゃうっていうかさ、ほんとね、ちょっと心が弱ってるときに聴くともう涙止まんなくて、でもその涙って哀しいとか辛いとかじゃなくて、感動の涙なんだよね。どの曲も単純に恰好いいんだけど、それだけじゃなくて、寄り添ってくれたり、応援してくれたり、素敵だよって肯定してくれたり、とにかくもう、いろんなパターンでガタガタに心揺さぶってきて、そのおかげで私の生きる活力になるっていうかさ⋯⋯、駄目だ、語彙力どこに捨ててきたんだろ⋯⋯、ちなみに甲子園のテーマソングは真崎くんのソロソングね。ついでに真崎くんのことを布教しておくとね、真崎くんはね、すごい。すごいから。もうなんでもできるから。スパダリだから」
「スパダリ?」
「スーパーダーリンの略」
「超ダーリンってこと? たとえば?」
「そりゃあ貴女、まずめちゃくちゃ料理ができることですよ。あ、狭霧くんと真崎くん、まず大前提として、いっしょに住んでるんだけど」
「え、そうなの?」
「なんかね、生まれたときから家族同然で育ったとかなんとか⋯⋯、いや、ふたりともさ、ちょいちょい育ちの良さを隠しきれてないのが狡すぎるんだって、ほんと⋯⋯、なんか、幼馴染ともまた違う感じなんだよね。だから今もいっしょに住んでて、ときどきSNSでふたりのオフの写真とか投稿されたりして⋯⋯、真崎くんは踊ってみた動画とかすごく頻繁に載せてくれるんだけど、たまに狭霧くんとふたりで踊ったりして、しかもめちゃくちゃ楽しそうに踊るわけよふたりとも⋯⋯、あのオフ感っていうか、なんていうかな、もうさ、ファンはあまりの尊さで阿鼻叫喚なんだけど⋯⋯」
「黄色い悲鳴とかじゃなくて、阿鼻叫喚なんだ、そこ」
「いやだって、踊ってみたもそうだけど、突然、鏡越しでスウェット姿のオフのふたり浴びたら阿鼻叫喚にもなるでしょうよ。しかもしかも、真崎くんが自撮りして、真崎くんの後ろに狭霧くんが立ってるんだけど、狭霧くんが真崎くんの肩に顎乗せてんのよ、無理でしょそんなの、そんなの⋯⋯」
「アイドルってすごいな。相手の肩に顎乗せてるだけで叫ばれちゃうんだ」
「これなんの話だっけ?」
「スーパーダーリンの話?」
「あ、そうそう、そうだった、そんでね、料理ができるんですよ。さっきも言ったけど。狭霧くんは真崎くんの手料理を食べて育ってるんですよ」
「育ってるってなに? ちょっと気持ち悪い」
「だってね、躰は食べ物で育つんだよ」
「知ってるよ」
「たまにね、真崎くんが今日の晩飯、って写真をアップしたりしてね、後ろにぼんやり狭霧くんがいたりしてね⋯⋯、逆に、狭霧くんが料理中の真崎くんの写真載せて、今から夜食、とかね⋯⋯、すんごい、なんか、日常覗いちゃってる⋯⋯、大丈夫かな⋯⋯」
「ふぅん。SNSってさ、炎上したりしないの?」
「真崎くんはスパダリだからその辺も馬鹿みたいに徹底してんのよ。周りが勝手に燃えてることはよくあるけど、真崎くん自身はマジで炎上したことないし、女性関係の噂とかも面白いくらいまったく⋯⋯、あ、一回だけあったかな。週刊誌にすっぱ抜かれて、あのときはそれこそ、ファンはもう、この世の終わりかってレベルの阿鼻叫喚でさ⋯⋯、ま、その女性、実のお姉さんだったらしいけど」
「それ、炎上するの週刊誌側じゃん」
「実際めちゃくちゃ燃えたよ。事務所も週刊誌にお灸据えたって話。あ、ちなみに、ふたりが所属してる事務所は久遠芸能事務所ね。狭霧くんのお兄さんの会社」
「え、すごいね」
「でしょ? しかも話によると、狭霧くんのお兄さんも超イケメンらしい。そりゃ、あの狭霧くんと血が繋がってるんだもん、イケメンでしょうけれども」
「ふぅん⋯⋯、じゃあ、炎上の心配とかはないんだ」
「あ、狭霧くんのほうは、すっごいどうでもいい情報が流れたりする。まあ、そっちは、炎上とは言わないかな」
「もしかして、前に言ってた⋯⋯」
「そうそう、歯ブラシのやつでしょ?」ポテトを摘まみながら笑う。「あれはもう一周まわって笑うよね。狭霧くんが鏡の前で撮った激レア自撮り写真から、狭霧くんの目に映り込んでたとか、なにかに反射してたとかでふたりが使ってた歯ブラシのメーカ特定するとか、ファン怖すぎる」
「あと、ピアスだっけ?」
「そうだ、ピアス、あったあった⋯⋯、あれね。ふたりのお揃いね。単純にお揃いのピアスってのがまずヤバくない? ふたりの関係エモすぎるでしょ。それを無粋にも特定しようとしたファンもね、いたいた」
「ファンって呼んでいいのかどうか、ちょっと悩むね」玲香もポテトに手を伸ばした。不思議そうにポテトを眺めて、一口食べる。
「まあねえ⋯⋯、でも、あんだけふたりとも顔が良くて、背も高くて、筋肉も凄くて、アイドル業に真摯で、ふたりとも仲良しで、パフォーマンスも最高で、歌も馬鹿みたいに上手くて、スポーツチャレンジ系の番組で次から次へと新記録樹立しちゃうアイドルなんていたらそりゃあ全人類推しちゃうに決まってるし、民度がよろしくないファンも少なからず生まれちゃうけどさ。だからって、私たちが必死になってそのファンを潰すのは違うし。私にできることは、自分の全力でふたりを推すことなので⋯⋯、なによりもふたりの幸せを願うことなので⋯⋯」
「ファンも大変だね」
「金がね。本当に、足りない。いくらあっても足りない。まだまだ注ぎ込みたいし、まだまだ貢ぎたいのに⋯⋯、こないだ発売された雑誌も、ほんと、ほんとにさ、もうめちゃくちゃヤバくて、顔が良すぎて、あと、なんか、めちゃくちゃ⋯⋯、こんなところで、しかも玲香相手に、こんなこと言うのもあれなんだけど⋯⋯、めちゃくちゃ、なんていうかな、お上品に言うと色気が⋯⋯、色気で人を殺せる⋯⋯」
「そっか、そういうのも全部買うのか」
「あったりまえでしょ。表紙どころか、半ページ載ってるだけでも買うわよそんなの。表紙になった雑誌なんて尚更。ベタだけど、保存用と観賞用と何度も眺める用とスペアで四冊は必ず買っておきたいくらいなわけ。インタビュー記事だって、もう、暗唱できるくらい読み込んじゃうし⋯⋯、CDも買う。ライブのDVDも買う。ライブチケットも買う。グッズも買う。全部買う」
「こうやってハンバーガも食べるし?」
「そうだよ、移動費とかもね⋯⋯、でも、嬉しい懐の痛みというか、嬉しい財布の軽さなので⋯⋯」
「私は、あくまで話でしか知らないから、適当なこと言うけど⋯⋯」玲香はそう前置きして、一度、グラスに口をつけた。「そのふたりなら、必死にお金を使ってもらうよりも、ファンの皆がふたりの活動で幸せになる、というか⋯⋯、少しでも前向きに生きるためのきっかけとか、エネルギィになれたらいちばん嬉しいって、思っていてくれそうな人たちだなって思うよ。少なくとも、私は、こうしてずっと話を聞いてきて、そう思ったな」
「なにそのめちゃくちゃ良い話⋯⋯、やめて、泣いちゃう、泣いちゃうから⋯⋯」
「私が勝手に推測しただけからね、これ」
「いや、うん、わかってる、でもたぶんね、いや、烏滸がましいとは思うけど、私もそう思う。あのふたりは、きっと私たちにそう言ってくれるんじゃないかって⋯⋯、だからこそ、私たちはお金でその感謝を伝えるしかできないわけですが」
「手紙とかあるじゃん」
「それもそう。うーん、久しぶりに書こうかな、ファンレター。あ、どうせなら、ラジオのお手紙書こうかな⋯⋯、ワンチャン、ワンチャンさ、読み上げてくれるわけじゃん⋯⋯、え? 無理⋯⋯」
「喜んでくれると思うよ」
「玲香、ふたりのなんなの?」
「たしかに⋯⋯」玲香は、口許を弛めて可笑しそうに笑った。「ちょっと今のは、なんて言うんだっけ? 前方彼氏面?」
「前方で彼氏面してどうすんの? 後方ね、後方」
「ただの彼氏になっちゃった」
「ね、このあと、いっしょにファンレター用の便箋買うの⋯⋯、付き合ってくれたり⋯⋯」
「いいよ」
「やった、ありがとう」礼を告げてから、特に意味もなく、少し前屈みに声を潜めた。「実はね、私のお気に入りの雑貨店があるビルの近くに、ふたりのクソデカ看板が新しく登場したらしくて⋯⋯、絶対拝みに行きたかったんだよね」
「ふぅん。なんの看板?」
「たしかね⋯⋯」
 思い出そうとして斜め上を見上げたところで、前方のテーブル脇に男性がひとり、立っていることに気がついた。とんでもない長身で、落ち着いたスーツと自然に下ろされた昏い茶髪や眼鏡が真面目な印象を抱かせる。あのテーブル、さらに浮いてしまった。
 そんなことを思っていると、不意に、男性と目が合った。
 日本人にしては彫りの深い顔立ち。高い鼻。
 おかしい。
 なぜか、すごく、見たことがある。
「あ、ちょ、待って、あの人、あの人⋯⋯」
「え、なに?」玲香が私の様子に可愛らしく眉根を寄せると、後ろを振り返った。「どうしたの?」
「あの人、あれだ、アナウンサの、 」
「アナウンサ?」玲香はすぐに此方に向き直った。「よく知ってるね」
「知ってるもなにも、めちゃくちゃ有名だよ、新人アナウンサなんだけどそこらの俳優よりも顔が良くて、なにより、めちゃくちゃハイスペック、そう、まさにスパダリ」
「スパダリだらけじゃん」
「ほんとに知らない? 朝のニュース番組に出ててね、こないだなんか、フランスとの中継で通訳の人が突然出演できなくなっちゃって、そのとき、その場で同時通訳したんだよ、めちゃくちゃ流暢にフランス語喋ってて、もう有り得ないくらい恰好良かったんだってそれが⋯⋯、君島操だよ、アナウンサの、ね、ていうか、駄目だ実物意味わからないくらい恰好いい」
「君島?」玲香は少し驚いた様子で呟くと、もう一度後ろを振り返った。「え、あれ? アナウンサ?」
「えっ、なに、まさか知り合い?」
「お父さまのパーティで見たことがあるけど⋯⋯」
「日常生活で父親のことをお父さまって呼ぶのも、パーティって単語が出てくるのもちょっと意味わかんないな」
「兄とあの人が挨拶してるとき、私、隣にいたんだけど⋯⋯、ラングマンって名乗ってたのに、お兄さまは君島さんって呼んでたから、不思議だなと思ってたんだよね。でも、アナウンサだったんだ」
「ラングマン?」
 慌てて携帯で調べてみると、たしかに、フランス名が記載されている。ノエル・ラングマン。知らなかった。ということは、彼は実際にそのパーティとやらにいて、玲香のお父上である小笠原会長のパーティに呼ばれるほどの人物、ということだ。
 どういうことだ。神さまめ。まったく、とんでもない依怙贔屓だ。間違いなく。
 やっぱり、この世はどうかしている。
「もう帰るのか?」低い声。君島操だ。「せっかくの外出だろう」
「わたしも近衛さんも、お腹いっぱいだもんね」
「私も、このあと寄るところがあるの」美少女が答える。美少女は声も美しかった。「だから問題ないわ。その代わり、また近々ご飯をごいっしょしましょうって約束したもの。ね?」
「それなら良いが⋯⋯、近衛嬢、差し支えなければ、行き先をお訊ねしても?」
「いつものところ」近衛と呼ばれた少女が微笑んだ。
「ああ⋯⋯」君島操が一度頷く。「では、俺たちで送っていこう。貴女をひとりで帰すと、あいつらがうるさいのでな」
「よろしいの?」
「構わない」
「まだいっぱいお話できるの、嬉しい」もうひとりの少女が言った。此方は、ふわふわとした優しい声だ。「わたしも、いっしょに帰りたいな」
「ありがとう。では、お言葉に甘えるわ」
「了解した」君島操は流れるような動作で伝票を手に取った。
「あ、私の分は⋯⋯」
「彼女を誘ってくれた礼だ」
「相変わらずね」
 君島操は軽く肩を竦めると、伝票を片手にレジに向かっていった。少女ふたりも立ち上がり、テーブルの上を片づけて、その場をあとにする。
「ねえ」
「なに?」
「無理⋯⋯、キャパオーバ⋯⋯」
「どの辺が?」玲香が言った。
「なんだろ⋯⋯、展開が?」
「展開?」
「だってだって、あんなスパダリの権化みたいなの浴びちゃったらもう⋯⋯、人間の形なんて保ってられないじゃん⋯⋯、なんであの人たち、平然としてられるの⋯⋯、無理⋯⋯」
「いつかさ、マサキくんとサギリくん? のふたりと遭遇なんてした日には、大変なことになりそう」
「遭遇するわけなくない?」
「わかんないじゃん。意外と近くにいるかも」
「同じ空気吸ってるって考えただけで無理」
「ちょっと気持ち悪い」
「いいもん⋯⋯、私はファンレターをしたためて、ふたりのおかげで毎日ハッピーすぎて頭ぶっ飛びそうですって告白して、感謝を伝えて、ふたりを応援して、ふたりの毎日の幸せをお祈りするもん⋯⋯」
「それがいちばんいいよ」玲香が笑った。
 その言葉に、ふと思う。
 考えてみれば、自分には大好きなアイドルがいて、毎日元気を貰って、毎日、どんなことがあっても、ふたりの存在が、私を少し前向きにしてくれる。毎日幸せに生きている。
 そんな存在に出会えたことだって、実はものすごく恵まれていて、大好きなふたりの幸せを願えることだって、実はものすごく、素敵なことなんじゃなかろうか。
 なんだか自分も、案外、神さまに愛されてるんじゃないかな、なんて、平凡で単純な私はそう思ったりしてしまうのだった。

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