1/五月十二日
モニタには、スーツを着た無愛想な男が映っていた。
ボタンを押してエントランスの扉を開けた数分後、再びインターホンが鳴る。玄関を開けると、先ほどモニタに映し出されていたままの、無愛想な後輩が立っていた。
「すまないね。急に家まで呼び立ててしまって」
「いえ⋯⋯」廿六木は玄関に足を踏み入れ、扉を閉める。「お邪魔します」
細長い廊下を進み、彼をリビングに通す。彼はしばらくテーブルの横に立っていたが、座るように促すとようやく荷物を床に置き、スーツのジャケットを脱いで椅子の背にかけた。
「なにもないけど、まあ、ちょっと座って待っててくれ」
「おかまいなく」廿六木は椅子に浅く腰かけた。「今日は病院の日ですか?」
「そうそう⋯⋯、あ、聞いてくれよ、今回は骨折も脱臼も珍しくゼロだったんだ、凄いだろ? まあ打撲傷は五つくらいあったんだけど⋯⋯」時計を確認する。十八時二十七分。「君は定時で上がって直接来たみたいだね」
「どうにも暇を持て余していたものですから」
廿六木は仮にも上司である私に対して、悪びれもなく平然とそう言い放った。この男は、新人の頃からこういった男だった。
グラスに氷をいくつか入れ、烏龍茶を注ぐ。冷蔵庫には彼のためにビールも冷やしてあるが、出番はもう少し先になるだろう。烏龍茶を入れたグラスをテーブルに置くと、廿六木は小さく頭を下げた。自分も向かい側に座り、グラスに口をつける。
「飯、食った?」
「いえ」
「じゃあ、ここは俺が簡単に食事を⋯⋯、と、言いたいところなんだけど。料理はあんまりできないんだよな」
「でしょうね」廿六木は僅かに視線を下げた。私の指に巻かれた絆創膏の数々を見ているらしい。
「いや、でも、君のほうこそ料理なんてしないんじゃないの? 使えないんだろ? コンロ」
「ガスバーナ代わりにはなりますがね」廿六木は自身の手許に目を向ける。「まあ、そうですね。火を使わないものなら少しはしますが⋯⋯」
「レタス千切るとかか?」
「レンジで何分、とかですね」
「それは料理って言わないんじゃないのか」
「べつにかまいません。コンビニかスーパーで、いくらでも出来合いのものが買えるので、特に⋯⋯、昼は食堂もありますし」
「食堂? よくあんな不味いところで食うな、お前」
「贅沢なことを仰りますね」
「事実を言っただけだろ? ま、せっかくだ、美味いもん食ってけ。出前かなにかの注文でもいいか? 奢るよ」
「では、お言葉に甘えて」
「なににする?」
「私はなんでもかまいません。あまりよく知りませんので⋯⋯、一ノ瀬さんのお薦めで」
「うーん、じゃあ、和食はいける?」
「大丈夫です」
「うん、そしたら和食の、定食⋯⋯、いや、ここはやっぱり、天麩羅御膳だな」携帯でメニューを確認し、注文の操作を進める。「じゃ、弁当が届くまでの待ち時間に、報告頼むよ」
「報告するほどの進展はなにひとつありませんよ」
「それもひとつの報告だろ? 進展していないということは、うん、君の評価を見直さなきゃならん」
「ああ、ええ⋯⋯」廿六木は曖昧に頷いた。「その前に、煙草を吸っても?」
「かまわないよ」
「どうも」そう短く答えてから、廿六木は椅子にかけたスーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。最適化されたような動作で煙草を一本抜き取り、口に咥える。
右手を軽く振り、火を点けようとしたまさにその瞬間、私は、彼の右手を自分の手で覆った。
彼にとっては、ライタの蓋を無理やり閉められたことになる。
廿六木は片方の眉を器用に持ち上げると、呆れたように此方を見た。
「失礼ですが⋯⋯、手を離していただいても?」
「さっきかまわないと言ったのは、吸えるものなら吸ってみるといいよ、という意味だ」
「意味がわかりません」
「このまま火を点けたって、べつに私はかまわない。どうせ熱くもないんだ」
「そうですか」
廿六木は椅子から立ち上がり、一度リビングを出た。すぐに戻ってきた彼は煙草を咥えていた。扉を閉めると、男は煙草を片手に持ち直し、わざとらしいまでにゆっくりと煙を吐き出す。
「お前、やめたほうがいいぞ、それ」
「どれのことでしょう」煙草を片手に持ったまま、廿六木は再び椅子に腰かけた。
「今のは煙草をしまって吸わないのが正解だろ?」
「ご心配なく。時と場所と相手は選んでいるつもりです」
「あ、そう⋯⋯」
「それで、私はなにをご報告すれば?」
「そうだなあ⋯⋯、ああ、そうだ、部下とはうまくやれそう?」
「部下?」廿六木は、一体なんの話だと言わんばかりに眉を寄せた。
「鹿島だよ、鹿島。超能力者でもない、それもかなりの新人だろ。そんな奴をお前の班に回すなんて、なかなかリスキィな異動だと思ってな。ちょっと気になってたんだ」
「彼女、生安に行きたかったそうですよ」
「生安?」
「例の失踪事件に興味があるようでしたが」
「失踪事件⋯⋯、ああ⋯⋯、超能力者の。あいつ、そんなものに興味あるのか」
「ドラマチックではありますからね。なにかしらの団体じゃないか、もしくは政府の陰謀ではないか⋯⋯、なんて持論も展開していましたよ」
「亡命支援団体ならぬ、超能力者支援団体ってか」
「可能性はあるかと。事実、別人になる手助け、というビジネスは存在するわけですから」
「ふぅん⋯⋯、危ないな」
「私もそう思います」廿六木が頷いた。「主導者と呼ばれる人間が持つカリスマ性の厄介さと言ったら⋯⋯」
「あ、そっちか」
「他にどちらがあるんですか?」
「鹿島だよ。陰謀だ、なんて意見が一足飛びに出てくるのはちょっとまずいだろ」烏龍茶を一口飲む。「というかお前、そういう団体に心当たりでもあるのか?」
「どうでしょうね」廿六木は白々しく言い放った。「どのみち、あまり意味のない心当たりです」
「まったく⋯⋯」
此方の溜息を余所に、廿六木は煙草を咥えてゆっくりと息を吸った。目を瞑り、椅子に背中を預けて座る男の様子はいつもどおり無気力な態度のようにも見えたが、この男の場合は、単にスイッチを入れるのに時間がかかる、という性質なのだ。無気力というよりは、省エネというべきかもしれない。
「進展というほどのものではありませんが⋯⋯」廿六木は濁った薄い煙を吐き出して、静かに目を開けた。「やはり、一ノ瀬さんの仰っていたとおりでした。超能力を持たない人間には、記憶が保持できないようです。もし、この事件の捜査を続けるというのであれば、私ひとりで捜査をするしかない、ということになるかと」
「そうかあ、鹿島は覚えてなかったか」
「我々の仮説がそう大きくは外れていない、ということでしょう」廿六木は頷いた。
「だがな⋯⋯、まさかそのまま上に報告する、なんてことはできないしな」腕を組み、少し考えようとしたが、煙草の煙の匂いが気になってしまい早々に思考を諦めた。「ま、仮に真相や犯人が判明したところで、どのみち公的な文書に残せるものでもないか」
「そうですね」
この事案を、目の前に座る男が所属している超能力者等関連事案対処班に回すのはどうか、と世間話ついでに助言したのは自分だ。入院中だった患者である青年と、どうも一般人には存在が認識されないらしい、青年の双子の姉。青年の首には扼痕があり、指紋も採取されたが、その指紋は被害者である青年のものとほぼ一致している。
つまり、この指紋の主であり青年の首を絞めた犯人は被害者の双子の姉だと考えるのが妥当なのだが、この仮説は現在自分と廿六木だけが共有している。捜査一課にも、自分の上司にも報告はしていない。
「気になるのは、結局これがどういう超能力なのか⋯⋯、そもそも、被害者と被疑者、どっちが超能力者なんだ?」
「いえ、そもそも、被害者の姉が被疑者かどうかも断定できませんが⋯⋯」廿六木は片手の煙草を緩く振った。「とにかく、記憶に関するものであることはたしかでしょう。超能力の作用が通常の物理法則を無視できる点、それから、我々と一般人との間で作用の効き方に差があることからしても、記憶に干渉する類のもの⋯⋯、しかも、世界規模で認識を左右できるとしても、あまり不思議はないかと」
「とんでもない代物だな」
「ですが、それ以上の推測は難しいですね。先天性機能欠損症候群の定義は、本来持つ機能を失っている代わりに、代替機能を保有していること⋯⋯、それに対して、なんらかの機能を失うことで他人の記憶に残らなくなる、或いは、認識されないというのは、少々奇妙な気がします。ただただ損失では?」
「超能力なんて、ほとんどマイナスだけどな。だってほら、俺を見てみろよ。他人の痛覚なんて受け取ったところで、自分の身に迫ってる危険はなにひとつわからないんだぞ。こんなもので、いったいなにが補完できるってんだ?」
「マジシャンにはなれるかもしれませんよ」廿六木は薄く口許に笑みを浮かべた。