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     1/三月二十二日

「ようやく春らしくなってきましたね」そう言って、男は電気のスイッチを入れた。
 電気のスイッチは、入室してすぐ、左手の壁にあった。男は入室しながらごく自然な動作でスイッチに触れ、その後は、穏やかな笑みを浮かべたまま入口近くに留まっている。
「どうぞどうぞ、中へ⋯⋯」椅子から腰を浮かせて、狭い部屋のほとんどを占めている中央の会議机のほうを示した。「そちらにおかけください」
 男は何度か軽く頭を下げながら、いちばん出入口に近い場所に着席した。自分は机と壁際に置かれたホワイトボードの間という、狭い上に中途半端な位置に腰かける。
「お久しぶりです、先生」
「いや、すまなかったね。此方の事情で、随分と予定がずれこんでしまったでしょう」
「いえいえ⋯⋯」男は柔和な物腰で曖昧に否定すると、天井を見上げるような素振りを見せた。「そういえば、まだセンサを取り付けられていないんですね?」
「そうなんだ。いやまったく、そろそろ限界だよ。勝手に研究室を改造されては困るだなんだと、事務がやけにうるさくてね。そんなもの、僕のほうが、あそこの研究室は教授室の電気まで学生に点けさせているブラック研究室だ、なんて囁かれそうで、困るんだがね」
「それはないでしょう。四方田先生の評判はなかなかのものですよ。ただ、まあ、たしかに困りますね。電気のスイッチのオンオフができない、というのは⋯⋯」男が笑った。「それにしても、改めて考えてみると、本当に不思議な現象ですね」
「呪いのようなものです」一度、軽く頷いてみせた。
「呪いですか?」男は背中を少し丸めて前傾した。「超能力が?」
「そう⋯⋯、君は、そう感じたことはない?」
「ええ、どうでしょう、不便だなと思ったことは何度もありますけど、呪いのようだとは⋯⋯」
「不便? 僕は勝手に、君のはなかなか役に立ちそうだと思っていたけど」
「たしかに、ええ、ペンがなくても書けますからね。そういった意味では、なかなかきちんとした代替機能ではありますが、人前でそう簡単に使用できるものではありませんから、結局、書けない、という私の制限は⋯⋯」
「そうかそうか。それもそうだ」私は顎をさすった。「そういう、人前でメモが取れないときは、どのように?」
「それも、その場で念写しています。鞄の中にメモ帳を入れたままで⋯⋯」男は一度、グレイのタイルカーペットの上に置いている自分の鞄に素早く目を向けた。「でも、これはおそらく、皆さんでいうところの、目を閉じてノートに文字を書く感覚と同じでしょうから、おわかりいただけるとは思いますが、たまに失敗して大変なことになってしまうこともあります」
「へえ⋯⋯、なるほど。いやあ、面白いな」
「面白いかどうかでしたら、先生のほうが面白い能力だと思いますよ」
「自家発電ができて、雷を落とせるだけ、というのは、うん、面白くはある。まったく実用的ではないものだからね」だが、この捻くれた言葉だけでは、彼の性格上、自分の発言に非があったと捉えかねない。そう思い直して、あえておどけた声音で言葉を続けた。「そう⋯⋯、どうにかしてサボタージュしたい学会なんかがある日に、頑張って雷を連発したことが一度あったかな。とはいえ、家電を使えないことのほうがよっぽど煩わしいというか、今のところ欠点でしかないよ。妻がいてくれるから、どうにかなっているものだ」
「奥様はお元気ですか?」
「うん、今朝、家を出るときに、今日は三宅さんが取材に来る日だと伝えたら、ぜひまた家に遊びにきてくれと言っていた」
「光栄です」三宅は恥ずかしそうに笑った。「ぜひ、此方こそとお伝えください」
「焼肉は好き?」
「はい」
「妻が、次は庭でバーベキューをしようと言っていたよ」後ろを振り返り、自分のデスク脇の壁にかけている大きなカレンダを確認する。「僕もようやく落ち着いたし⋯⋯、来月なんてどうでしょう?」
「いいですね。のちほど、予定をまとめてメールします」
 三宅は鞄の中から黒い手帳を取り出した。手帳を開いて机の上に置き、三宅がそのページを一瞥すると、間もなく『来月の予定をメール、四方田教授』という文字が浮かび上がった。
「そういえば、三宅さんの場合は、手で文字を書けないだけで、携帯やパソコンを使って文字を入力することはできるんだったね。それならば、人前でメモを取るときに、パソコンを使うというのはどうだろう?」
「もちろん、それは真っ先に考えました。でも、パソコンに入力しながらお話を伺うのは、私にはどうも⋯⋯、相手のお顔を見て、目を見ながらお話を伺ったほうが、結果的に良いお話を聞くことができるような気がしています。録音しておけばいいわけですしね。記事を書くときは、ブラインドタッチの練習も兼ねてパソコンで入力していますが、文字に合わせて指を動かすことに慣れていないといいますか、正直なところ、疲れますね。どうして指を動かさないといけないんだろうって⋯⋯、キーボードで入力する、という作業は、私にとっては手間がかかるという認識なんです。特に、長文になればなるほど、念写で書き起こしたほうが早いし楽なので⋯⋯、なかなか慣れません」
「アナログはいいね。僕なんて、すぐに機械を駄目にしてしまうから、アナログは相性がいい」
「実験には精密な機械を使用しますよね? それはどうされているんですか? 実は、ずっと気になっていたんです」
「近づかないようにしているよ。指導は助教に任せて、学生が実験に使用して⋯⋯、うん、やっぱりブラック研究室だな」
「しかし、それでは、研究もままなりませんね」
「ウェットな実験をしようがドライな実験をしようが、どちらにせよ、機械は必ずついて回る。まあ、僕がまったく使用できないものは電気のスイッチだけだから、機械の故障というのは、あくまで副作用的な症状に過ぎないはずなんだがね。仰るとおり、ままならないことは多かった。学生の頃なんか、スイッチを入れてくれって頼んだら、何様のつもりだ、なんて言われたこともあったね。そういうとき、そいつが使っている機械を故障させてやろうかと何度思ったことか」
「もし私がその立場だったら、思うだけでは済まなかったかもしれません」そうは見えない穏やかな笑みを浮かべて三宅が言った。
「いや、僕はただね、そいつの研究結果を早く知りたかっただけなんです。僕の研究にも関わりのあるテーマだったし、なにより、魅力的な実験だった。機械を故障させて、失敗させて、また時間をかけてやり直し⋯⋯、なんて損失は馬鹿馬鹿しいでしょう」
「そういうものですか」三宅が頷く。
「観測者の存在は重要ですからね」
「観測者ですか? その⋯⋯、つまり、研究者が、ということですか?」
「そうです。少なくとも我々の実験分野というものは、実際に現象として観測されなければ確定しないものですからね。理論上はこうだ、と断言するだけでは駄目だ。それが観測できて、かつ再現できること。これが非常に重要です」
「ああ⋯⋯、そういえば、問題になっていましたね。どうも、研究結果の再現性の低さが問題になっているとか⋯⋯」
「同じ手順、同じ条件下でおこなっているのに同じ結果を得ることができない、そういった、再現されない論文というものに意味があるとは言い難いよ。実験結果を左右する、最も大きなファクタを見逃していることになるんだからね」そうして、自分が次に述べようとしている言葉に、思わず笑みを零してしまう。「超能力にさえ、再現性があるっていうのに」